第43話 思わぬ誘い、そして未踏の地へ
昨夜の慟哭が嘘のように、朝日は容赦なく、そして平等にマラッカの街を照らしていた。
一階のダイニングへ降りると、そこには昨夜の「泣き虫」の面影を残しつつも、どこか吹っ切れたような表情のナナがいた。
「おはようございます、すみれさん! 昨夜は本当に……ありがとうございました。おかげで、少しだけ心の整理がついた気がします」
そう言う彼女の目元は、隠しきれないほど赤く腫れている。痛々しくはあるけれど、その瞳には、一晩かけて毒を吐き出した後のような、澄んだ光が宿っていた。
「おはようございます。少しでも眠れたなら良かった。『時ぐすり』という言葉があるくらいです。あとは、時間がゆっくりと癒してくれますよ。無理をせず、自分のペースでいいんです」
彼女にかけているのか、それとも自分に言い聞かせているのか。おそらく、その両方なのだろう。私たちは共に、過去という重い荷物を少しずつ解いている最中なのだから。
「すみれさんは、マラッカの後はどちらに向かわれるんですか?」
ナナの問いに、私は手元のコーヒーカップを見つめた。
「うーん、まだ悩んでいるんです。あまり贅沢はできないけれど、一人旅だから、とにかく治安重視で行き先を決めたいなと思っていて……」
「あの! もし、嫌でなければなんですけど……」
ナナが身を乗り出した。その勢いに、私は思わず背を正す。
「これから一緒に、《《インド》》を旅しませんか?」
「えっ、インド……?」
「はい! 宿泊費は、私がツインの宿を予約するので心配しないでください。マレーシアからインドへの往復航空券だけ用意してもらえたら……。一人だとやっぱり少し心細いというか、今の私には、すみれさんと一緒に旅をしてもらえたらすごく心強いんですけど、ダメですか?」
思わぬ申し出に、言葉を失った。
インド。聖なる河、喧騒、多様な文化。アパレル関係者からも高い人気を誇り、クリエイティビティを刺激する国だ。いつか行ってみたいと思っていたものの、女性の一人旅にはいささかハードルが高いと感じ、知らず知らずのうちに選択肢から外していた場所だった。
「本当に? 私が同行してもいいの? 私にとってもインドは一人で行くには勇気がいる場所だったから、ご一緒できたらこれほど心強いことはないけれど……」
「えっ! それじゃあ、OKですか? やったぁ!」
ナナはパッと表情を輝かせた。そのエネルギーに押されるように、私は不思議な高揚感を感じていた。
ナナは早速、まるで最初から決まっていたかのように、インド入国に必要な「e-VISA」の手続きについて、立て板に水で説明し始めた。
「すぐ申請しましょう! ネットで完結しますから」
彼女の鮮やかな手さばきを見ながら、私は改めて「旅は人との出会い」であることを実感していた。
約三週間前まで、私は千葉の実家を飛び出し、異国で一人震えていたはずだった。それが今、昨日出会ったばかりの、傷を抱えた若いインフルエンサーと共に、未知なる大国を目指そうとしている。
日本で、私のインスタをチェックしているであろう両親や真理子先輩、そして慎二が知ったら、腰を抜かすかもしれない。
「わかったわ。行きましょう、インドへ」
私は、まだ見ぬ景色に思いを馳せながら、航空券の予約サイトを開いた。
その場その場で出会う縁に身を任せ、私は、私だけの「旅の地図」を広げ始めていた。
「ナナちゃんは、インドのどこに行きたいの?」
「んー。北インドはYouTubeでもよく見るから、西インドかなって思ってます」
「西っていうと、ムンバイね。インド映画で有名な場所でしょ。私も、四年前の『RRR』を観たわよ」
「ああ、そうですね。ジャイプールとか、ウダイプール、あとはゴアとかかな」
「そう。たくさんあるのね。勉強しなくっちゃ、もったいないわね」
「はい。ムンバイには、日本から嫁いだYouTuberの方がいるんです。以前、私の動画にコメントをもらったことがあって。一度連絡してみますね」
「へえ。インドに嫁ぐなんて、色々と刺激的なことが多そうね。勇気がある方なんだわ……ぜひ、お会いしてみたいわね」
「ふふ。すみれさんならそう言ってくれると思ってました。早速、アポ取ってみます!」
私の旅が、思わぬ方向へと舵を切った。これだから、旅も人生も面白いのだろう。そう思えるようになったことが、今の私にとっては何よりの喜びだった。
「うわあ。すごいわ……」
二千人で驚いていたフォロワー数が、一晩で一万人にまで膨れ上がっていたのだ。ナナの影響力は想像を絶していた。
さらにコメント欄をスクロールしていた私の指が、ある一行で止まる。
『スカーフすごく似合ってます! 体に気をつけて、旅を楽しんでください。応援してます! @ramen_shinji723』
隠す気があるのかないのか、彼の大好物ラーメンと誕生日を組み合わせた安直なID。そして、『くまのスミレ』の装いの細かな変化に気づき、一歩引いた場所からエールを送る。どこまでも真っ直ぐで、けれど土足で踏み込んでこない、『元婚約者の弟』慎二くんらしい距離感だった。
(……ありがとう、慎二くん)
喉の奥が熱くなる。家を出るとき、彼には何も告げなかった。それでも彼は、絵葉書一枚の不義理さえも理解し、こうして公共の場で足跡を残してくれている。
一万人という「知らない誰か」の中に、私の過去と痛みを、そしてかつての「型紙」を知る人が一人混ざった。けれど、今の私にはそれが少しも怖くなかった。
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