第42話 マラッカの夜と鏡合わせの告白
夜十一時過ぎ。喉の渇きを覚えて一階の共有スペースに降りると、そこにはハーブティーのカップを前に、一人で物思いに沈むナナの姿があった。
「こんばんは。どうしたの? 編集は捗った?」
声をかけると、彼女は先ほどまでの弾けるような笑顔を見せず、少しだけ力なく視線を上げた。
「……あ、こんばんは。はい、まあまあです」
「……あれ? 元気がないようだけど。何かあった?」
「ふふ。はい、まあ。そんな感じです」
彼女の隣に腰を下ろすと、微かにハーブの香りが漂う。
「そう、大変だね。旅行って本来は楽しいものなのに、あなたにとっては『お仕事』だものね」
「……ええ、そうですね。……好きで始めたはずのことなのに、旅に疲れるって不思議ですよね」
「本当にね。会社員をしていた頃は、一週間以上の旅行なんて夢のまた夢だったのに。いざできるようになると、全力で楽しめないなんて皮肉だわ」
私の言葉に、ナナがふとこちらを向き、核心を突くような視線を向けてきた。
「……すみれさん、旅を楽しめてないんですか?」
「ううん。のんびりはできているけれど……『楽しい』ってなんなんだろうね。一人だから気楽なこともあるけれど、一人だから楽しみきれないこともある。そんな感じかな」
ナナは私の答えを聞くと、少し意外そうな顔をして、それから自嘲気味に笑った。
「……すみれさん、私のこと、何にも聞かないんですね」
「えっ? ……普通は、何か聞くべきことがあった?」
「ふふ。いいえ。すみれさんは、エゴサとかしないんですか?」
「エゴサって、自分を検索するあれ? ……仕事で新商品の評判を調べたり、食べログを見たりはするけれど。今は、観光地や交通手段、ホテルの情報で手一杯よ」
「ふふふ。『すみれさん』って人が少しわかった気がします」
少しだけ、彼女の表情が柔らかくなった気がした。
「ナナさん、大丈夫? 今夜は、本当に……すごく疲れているみたい」
「はい。……ちょっと、疲れました」
「そう。……何かあったなら、聞くけれど。旅先で出会っただけの他人なら、かえって話しやすいこともあるかもしれないし。あっ、でも有名人だとSNSも心配よね。私に話しても気休めにもならないかな」
私の提案に、ナナはしばらくハーブティーの湯気を見つめていたが、意を決したように唇を開いた。
「……いえ。……聞いてもらえますか?」
「あっ、うん。秘守義務は守るわ。インスタも始めたばかりの初心者だし、SNSでも何も呟かないから安心して」
「ふふふ。はい。エゴサをしないすみれさんのことは、信用しています。聞いてもらえますか……私の『恋バナ』」
「恋バナ」――その響きに、私の中の癒えきっていない傷がわずかにざわついた。けれど、私はその動揺を飲み込み、静かに頷いた。
ナナが静かに話し始めたのは、「《《恋人のいる》》男性」との、あまりに痛ましい恋の顛末だった。
「彼と出会ったのは一年前で、仕事で雑誌の取材を受けたのがきっかけでした」
ナナはカップから立ち上る湯気の向こう、遠い記憶をなぞるように瞳を揺らした。
「一目惚れ……だったんだと思います。黒髪にメガネの落ち着いた雰囲気で、服装もトラッド。私、派手な印象を持たれがちですけど、本当はインドア派で家で本を読んだりするのが好きなんです。だから、自分とは違う世界を持っている彼に、一瞬で惹かれて……。真面目でおとなしそうな大人の男性って印象だったんですよ」
「うん」
私は最低限の相槌だけを返す。その「トラッドな雰囲気」という言葉に、かつての自分が健一に抱いた安心感を重ねてしまい、心臓が小さく跳ねた。
「左手には指輪もなかった。だから、仕事で何度か会ううちにプライベートでも会うようになって……自然な流れで、お付き合いしているものだと信じていたんです。週末はうちに泊まったり、普通にデートしたり……そんな関係で……」
「そう」
「はい。年末年始に会えなかったのも、出版業界は忙しいからって、自分に言い聞かせて我慢して。SNSではマメに連絡をくれていたから。でも……先月になって、突然言われたんです」
ナナの瞳が、急速に潤んでいく。
「結婚するから、もう会えないって。……最初は何を言われているのか分からなくて。頭が真っ白になって、『何かの冗談?』『私が聞き間違えただけ?』って、現実を拒絶することしかできませんでした。でも、彼が淡々と話し続けるのを聞いていて、ようやく点と点がつながったんです。私と付き合っている間、ずっと、彼には『本命の婚約者』がいたんだって」
ナナの頬を一筋、涙が伝い落ちた。私は黙って、テーブルの上のティッシュ箱を彼女の近くへ差し出した。
「うっ……うぅぅ……ありが……とう……ございます……」
私は椅子の位置を詰め、ナナの背中にそっと手を添えた。ゆっくりと、波を鎮めるようにさすり続ける。
「私は……ただの、遊び相手だったんです。この一年間、二人で大切に育んでいると信じていたものは、全部私の妄想だったの? 嘘だったの? そう思うと、ひどすぎて、苦しくて……っ」
ナナは握りしめた拳を震わせ、吐き出すように続けた。
「日中は仕事に没頭して、無理やり自分を麻痺させています。でも、夜になると、裏切りへの怒りと、彼に大切にされていなかったという惨めさが一気に押し寄せてくるんです! なんであんな男を好きになったの? なんで見抜けなかったの? 相手の彼女に対しても申し訳ないし、何より、騙されていた自分が一番情けなくて……!」
怒りと後悔。そしてその底に沈んでいる、言葉にならないほどの深い悲しみ。
彼女が吐き出す感情の一つひとつが、まるで自分の傷口をなぞられているかのように私の胸に突き刺さった。
「わかるよ……。本当に、わかるよ」
私は彼女を抱きしめるように、声を絞り出した。
彼女は今、感情の激しい荒波の中にいる。裏切られた怒りがピークに達し、それでも「まだ好きだった」という未練と、「自分に価値がなかったのか」という自己評価の揺らぎの間で、心が悲鳴をあげているのだ。
「ナナさん、あなたは自分を責めなくていいの。一生懸命に人を信じて、大切に想った。それは、あなたがそれだけ誠実な人だって証拠だから。悪いのは、その真っ直ぐな気持ちを利用した彼の方よ」
「……うぅ……っ。私、どうすればいいか……分からなくて。旅をして、景色を見れば忘れられると思ったのに……」
ナナは子供のように声をあげて泣き続けた。
私は彼女の背中をさすりながら、自分自身にも言い聞かせていた。怒りも、悲しみも、情けなさも。この嵐が過ぎ去るまで、何度行き来してもいいのだと。
その夜、私たちはマラッカの静かな夜気の中で、ただ寄り添い続けた。それはナナのためであると同時に、私自身の心が、本当の意味で受容へと向かうための、静かな儀式でもあった。
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