第46話 旅の感謝と、新たな地へ向かう
マラッカでの穏やかな日々を後にし、私たちは次なる冒険の地、インドの西、ムンバイへと向かった。
アブドゥルとファティマ、そしてリリー。マレーシアで私を温かく迎えてくれた人たちには、感謝の言葉と、旅の行き先がインドになったことを伝えるメッセージを送った。
スマートフォンに届いた彼らからの「Travel safe, Sumire! We’ll miss you.」
(気をつけてね、すみれ! 寂しくなるわ。)という温かい返信を胸に、私たちは高速バスに揺られてクアラルンプール国際空港 Kuala Lumpur International Airport - KLIA を目指す。
車窓を流れるマレーシアの緑が、次第に空港の近代的な巨大建築へと変わっていく。
LCC専用のターミナルであるKLIA-2は、世界中からのバックパッカーや家族連れで溢れ、独特の熱気に包まれていた。エアアジアのチェックインカウンター。赤いロゴが並ぶその光景を前に、私は少しだけ気を引き締める。
「すみれさん、準備はいいですか? ここを越えたら、もうカレーの香りがしてきますよ!」
ナナちゃんが冗談めかして笑う。彼女は昨日までの沈んだ表情をどこかに置き忘れてきたかのように、テキパキと自動チェックイン機を操作していく。
三万円程度の格安往復航空券。五時間半のフライト。日本で慎二くんと「いつか行けたらいいね」と夢想していたインドが、今はたった一枚のQRコードとして私の手の中にある。
出国ゲートをくぐる時、ふと振り返った。
逃げるようにやってきたマレーシア。けれど、今ここを去る私の心にあるのは、後ろめたさではなく、未知への純粋な好奇心だった。
五時間半のフライトを経て、飛行機が高度を下げ始めると、眼下にはムンバイの街が広がった。密集する光の粒と、その隙間に横たわる深い闇。
ムンバイ、チャトラパティ・シヴァージー国際空港Mumbai Airport - BOMに着陸し、飛行機のドアが開いた瞬間、ねっとりとした熱気と、スパイスと排気ガスが混ざり合ったような、重厚な空気が肌にまとわりついた。
「わあ……ついに来ちゃいましたね。インド……!」
ナナちゃんが深呼吸をして呟く。
到着ロビーに出ると、そこは活気に満ちていた。空港は、インドの玄関口にふさわしく、豪華な蓮の花を思わせる天井装飾が美しいが、一歩外に出ればそこは混沌の世界だ。
ズラリと並ぶ出迎えの人波、客引きの声、鳴り止まないクラクションの音。
マラッカの静寂とは正反対の、生命力が爆発したようなエネルギーに圧倒され、私は思わず「くまのスミレ」が入ったバッグを強く抱きしめた。
「すみれさん、まずは予約したホテルまでUberで行きましょう。ここからは一歩も引いちゃダメですよ!」
頼もしく笑うナナちゃんに頷き、私は一歩、インドの地を踏み出した。
重い空気の向こう側に、新しい物語の匂いがした。
マラッカからムンバイへの旅路、私の隣には常に「YouTuberとしてのナナ」がいた。
バスを待つ間も、空港の雑踏の中でも、彼女は手元の小さなGoProのレンズに向かって、まるで親しい親友に語りかけるように楽しげに話し続ける。
「今、空港に着きました! これからいよいよインドです!中に入ったら撮影できなくなるから、簡単に説明しますね!」
目の前には誰もいない。ただGoProのモニターがあるだけなのに、彼女の視線の先には、何十万人もの「誰か」が確かに存在しているようだった。一人で語り、一人で笑い、時に大袈裟なほど驚いてみせる。その姿は、パタンナーとして黙々と生地と向き合ってきた私から見れば、どこか異世界の住人のような特異な光景に映った。
けれど、カメラが回っていない瞬間の彼女を、私は知っている。
一度カメラを閉じ、MacBookを開けば、彼女の瞳からは先ほどまでの華やかさが消え、職人のような鋭さが宿る。
何時間も回し続けた膨大な素材を、秒単位の精度で切り刻み、繋ぎ、数分のドラマへと凝縮していく。「編集こそが動画の命」だと語った彼女の言葉通り、それは気の遠くなるような、孤独な創造作業だった。
(……この子は、こうして自分を保っているんだわ)
日中、仕事という名の「発信」に没頭している間、彼女は悲しみを忘れられているのだろう。レンズの向こう側にいる誰かのために笑うことが、彼女にとっての鎧なのだ。
けれど、移動の機内、ふと窓の外を眺める彼女の横顔に、隠しきれない影が落ちるのを私は見逃さなかった。
活気に満ちたムンバイの空港に降り立ち、一瞬の静寂が訪れたとき。あるいは、ホテルの部屋で一人、画面の明かりを消した瞬間。
押し殺していた裏切りの痛みや、癒えない傷口が、ムンバイの熱気と共に彼女を襲う。
悲しみには、いろいろな形がある。
私のようにすべてを投げ出して逃げ出す形もあれば、彼女のように必死に「輝く自分」を演じ続け、忙しさで心を塗りつぶす形もある。
「すみれさん、見てください! あのオートリキシャの飾り、めちゃくちゃ可愛くないですか?」
レンズを向けてはしゃぐ彼女の背中を見つめながら、私は静かに願った。
彼女が繋ぎ合わせる動画のように、いつか彼女の人生も、この痛みを「必要なプロセス」として、美しく編集できる日が来ることを。
その痛みを知っているからこそ、私は彼女の「特異な日常」を、ただ静かに、敬意を持って見守りたかった。
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