第39話 海風と、優しい時間
車はさらに静かなエリアへと進み、『マラッカ王宮博物館 Melaka Sultanate Palace マラッカスルタンパレス』の周辺を抜けていく。釘を使わず、木の組み込みだけで作られたというその高床式の宮殿は、周囲の静けさと相まって、まるで時間が止まっているかのような錯覚を抱かせる。
“It’s a bit outside the historic district, but it’s one of the places that still feels the most like it did back then. It’s perfect for a walk—or even just taking it in on a drive like this. It’s such a treat.”
「ここは歴史地区の少し外れにあるけれど、当時の面影を一番色濃く残している場所だよ。散策にも、こうしてドライブで眺めるのにも、最高に贅沢な場所なんだ」
アブドゥルの言葉通り、車窓を流れる緑と木造の宮殿は、私の荒んだ心にゆっくりと染み込んでいった。
やがて、旅の締めくくりに訪れたのは、海へと突き出すように建てられた『マラッカ海峡モスク Melaka Straits Mosque』だった。
潮が満ち始め、白いモスクはまるで海に浮かんでいるかのような幻想的な姿を見せている。沈みゆく夕日が水平線を黄金色に染め、モスクのドームを神々しく照らし出していた。
寄せては返す波の音を聞きながら、私は三人の静かな時間を共有した。
九年という歳月を共にした人を失い、二十九歳で独り、異国の風に吹かれている自分。その寂しさを完全に消すことはできない。けれど、アブドゥルやファティマのような、旅の途中で出会った人々のさりげない優しさに触れるたび、私の内面は、少しずつ新しく組み直されているのを感じる。
“What a beautiful sunset……”
「美しいわね……」
ファティマがぽつりと呟いた。
「ええ。本当に」
私は、その絶景をしっかりと胸に刻み込んだ。かつて誰かの期待に応えるためだけに生きていた自分は、もうここにはいない。一ヶ月前には想像もしていなかったこの景色が、今の私の新しい一歩を、確かに肯定してくれているような気がした。
私はバッグから「くまのスミレ」を取り出し、夕日を背負うモスクと共に、一枚の写真を撮った。それは、過去への訣別と、自由であることへの高揚感を、そっと封じ込めたような一枚になった。
車で十五分ほど、潮風の余韻に浸っているうちに宿のある中心部まで送り届けてもらった。
夕飯も誘ってもらったが、これ以上二人の貴重な休日の時間を私のために使ってもらうわけにはいかない。感謝を伝えつつ、丁重に遠慮した。
笑顔で大きく手を振ってくれるファティマと、頼もしく頷くアブドゥル。二人の乗った車が見えなくなるまで見送ってから、私は宿に戻った。
ランチに食べたサテー・チュロップがまだお腹に残っていて、夕食というほどお腹も空いていない。今夜は宿の一階サロンに用意されているフリーフードのクッキーを数枚摘み、温かいコーヒーを淹れて、それを夕飯代わりにすることにした。
ふと、移動中に二人が教えてくれたアドバイスを思い出す。
“When you’re traveling alone, it’s a good idea to avoid posting in real time. Maybe upload photos after you leave a place—just in case.”
「女性の一人旅だから、リアルタイムで投稿するのは気をつけたほうがいいわ。その場所から離れてから画像をアップするようにしてね。変な人に居場所を特定されたら怖いもの」
「くまのスミレ」にまでストーカーの心配が必要だろうか、と少しおかしくなったけれど、異国の地で自分の身を守るための大切な助言だ。ありがたく受け取っておこう。
この数日、投稿した写真にぽつぽつコメントがつくようになった。とりあえずハートで返してるけど、SNSのマナーとか正解とか、正直まだよくわかってない。
ふと、これからのことを考える。
旅の資金を調達できるほどのインフルエンサーになるには、一体どうすればいいのだろう。今はまだ、その答えは見えない。
けれど、時間はたっぷりある。パタンナーとして培った技術は、まだ私の指先に残っている。まずは、この旅を共に歩む「くまのスミレ」の新しい着替えを作っていこう。
一針ずつ、この街で感じた色や光を形にしながら、私は自分自身の「これから」も、ゆっくりと縫い合わせていくつもりだ。
一階の共用スペースのソファで、コーヒー片手に次の渡航先を検索していた私に、日本語の声がかかった。
「あの……日本の方ですよね? 少しお話ししてもいいですか?」
目を向けた先には、二十代前半だろうか、ボブヘアの可愛らしい雰囲気の女性が立っていた。
「えっ、あっ、はい。構いませんよ」
二週間ぶりの日本語での会話に、妙な緊張感が走る。一人で東南アジアを旅する「逃亡者」のような後ろめたさだろうか、無意識のうちに警戒心が首をもたげていた。
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