第36話 古都の目覚めと、すれ違う嗜好
マラッカ滞在二日目。ベッドのカーテン越しに、眩しいほどの朝日が差し込み、私を眠りから呼び起こした。
(どうやら遮光カーテンではなかったようね。電気をつけたら、中が透けて見えちゃうかしら……?)
昨夜は外からカラオケの歌声らしき賑やかな音が漏れ聞こえていたけれど、騒音というほどではなく、この街らしい活気として心地よく感じられた。
宿に朝食のサービスはないが、共有スペースにはコーヒーとクッキーが常時セットされている。フレンドリーなスタッフ、そして一階を自由に行き交う猫たち。猫好きにはたまらない環境だ。
(健一、ここは好きそうね。でも、ゲストハウスには滞在しないわね)
ふと、そんなことを思う。私は犬派で、健一は猫派。……いや、待って。健一って、猫好きだったよね?
「……私たち、本当に共通点なんてあったのかな」
思わず苦笑が漏れる。九年も一緒にいて、そんな些細な嗜好の違いさえ、今の私には遠い記憶になりつつあった。
今日は一日かけてマラッカ観光を楽しむつもりだ。幸い、宿の徒歩圏内には見どころが点在している。この宿を選んだ理由も、滞在費の安さだけではなく立地の良さもある。
宿を出て、まずはマラッカ観光の起点となるオランダ広場を目指して歩き出す。そこは17世紀から18世紀にかけての歴史的建造物が美しく保存されている、まさに街のシンボルだ。
広場に到着すると、目の前には鮮やかなテラコッタレッドの世界が広がっていた。マレーシアの強い日差しに照らされた赤い『マラッカ・キリスト教会Melaka Christ Church』や『旧オランダ総督公邸 スタダイス Stadthuys』は、抜けるような青空とのコントラストが驚くほど美しい。
まずは、観光客で賑わう『I love Melaka』のモニュメントを探す。ここが、今回の旅の相棒である「くまのスミレ」の絶好の撮影ポイントだ。
「スミレ、ここがマラッカよ」
真っ赤な壁を背景に、モニュメントの横へちょこんと座らせる。スマホ越しに覗くその姿は、この歴史ある街に少し馴染んでいるように見えた。
周囲には、大音量の音楽を鳴らしながら、花々で極彩色のデコレーションを施した「トライショー」が列をなしている。その自由奔放でエネルギッシュな光景を見ていると、日本で一人、窮屈な思いを抱えていた自分が嘘のように思えてくる。
私は満足ゆく画像を撮り終え、広場を吹き抜ける風を深く吸い込んだ。歴史の重みと、異国の開放感。その両方が溶け合うこの赤い広場から、私のマラッカ観光が本格的に始まった。
川べりの建物に描かれた鮮やかな壁画アートを眺めながら、マラッカ川沿いをゆっくりと歩く。異国の風に吹かれ、あてもなく足を運ぶ。かつての私なら、想像すらできなかった行動だ。
東京で忙しなく働いていた日常の中で、SNSに流れてくるバックパッカーの海外旅行の発信を目にすることは何度もあった。そんなとき、私の口からこぼれるのは「わあ、いいなあ」という、どこか他人事で心の伴わない感想ばかりだった。それを「我がこと」として、自分の人生の地続きにある風景として捉えたことなど、ただの一度もなかったのだ。
私にとっての海外旅行とは、ホテルが手配された三泊四日程度のパッケージで、スキューバダイビングを楽しんだり、買い物をしたり、有名な観光地を効率よく巡るためのものだった。
けれど今は、自分の足でこの土地を踏みしめている。
これが本当に自分の望んでいた旅の形なのか、自分に合っているのかは、正直まだわからない。それでも、今の自分には、この「あてのない歩み」こそが必要なのだと、確信に近い思いが胸の奥に灯っていた。
そのまま、ジョンカー・ストリートの喧騒へと身を投じた。マラッカ旧市街のチャイナタウンと称されるエリアの『ジャラン・ハン・ジェバットJalan Hang Jebat』は、昔から地元の人たちから『ジョンカーストリート』という愛称で呼ばれているそうだ。
ここは週末ともなればナイトマーケットが開催され、多くの人で埋め尽くされるマラッカ随一の目抜き通りだ。通りには歴史を感じさせる古い建築物が並び、雑貨店からはスパイスの香りが漂ってくる。
『プラナカンPeranakan』とは、マレー語で「ここで生まれた」意味で、15世紀頃からマレー半島に移住した中国系男性と現地マレー人女性の間に生まれた子孫とその文化を指すのだそうだ。
かつてプラナカンの人々が暮らした豪華な邸宅「ババ・ニョニャ・ヘリテージ・ミュージアム」の繊細な装飾を眺めていると、この街が積み重ねてきた多文化共生の歴史が、肌に伝わってくるようだ。
少し歩き疲れたので、マラッカ川のほとりに腰を下ろした。ゆったりと進むリバークルーズの船が、水面にレトロな壁画の影を揺らしている。
「ひとりで、こんなに遠くまで来たんだな……」
ふいに込み上げてきたのは、寂しさよりも、どこまでも自由であることへの高揚感だった。
私は澄み渡った青空に向かって大きく背伸びをし、博物館へ向けて歩き出した。
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