第35話 赤い街のまどろみ、古都マラッカへ
クアラルンプールの朝は、どこか名残惜しい湿り気を帯びていた。
大きなバックパックを背負い、私はリリーの家の玄関先に立っていた。十日間ほどの滞在だったけれど、ここを出るのがこれほど寂しくなるとは思わなかった。
「本当に、本当にありがとう! リリーに会えて、本当によかった。ご家族の皆さんにも、感謝してもしきれません。いつ日本に帰るかはまだ決めていないけれど、帰国したら絶対に遊びに来てね。うちに泊まってもらって、今度は私が案内するから!」
私の拙い英語と精一杯の気持ちに、リリーがふふふ、と喉を鳴らして笑った。彼女の胸元には、昨夜私が手渡したマスコットが揺れている。
“Oh, Sumire, you’re so dramatic. We’re the ones who had a great time. This little tudung bear is absolutely adorable. I can’t believe you made one for everyone in the family. Look even Dad’s has glasses on. I love it ! “
「すみれったら、大げさね。私たちの方こそ楽しかったわ。この『トゥドゥンを巻いたくま』、本当に素敵。家族全員の分まで作ってくれるなんて。見て、パパのマスコットなんてメガネまでかけてるのよ。最高だわ!」
お世話になったお礼にと、持参した端切れと購入したバティック、リリーに分けてもらったリボンで、家族一人ひとりをイメージしたクマを仕立てたのだ。パタンナーの意地を見せて、パパのメガネは細い針金を曲げて作った。喜んでもらえたことが、何よりも誇らしい。
クアラルンプールでの温かな滞在の締めくくりに、私はリリーのお母さんが作ってくれた色鮮やかな朝食を並べ、スマートフォンのカメラを構えた。
湯気が立ち上るナシレマや、香ばしく焼かれたロティ・チャナイ。その豊かな食卓を背景に、私は手作りの「くまのスミレ」と、今回の旅で絆を深めた「くまのリリー・ファミリー」をそっと座らせる。
「はい、チーズ!」
撮った瞬間、液晶の中で微笑むくまたちが、この旅が私にくれた「温かな居場所」を象徴しているように見えて、私は胸の奥が熱くなるのを覚えた。この一枚は、きっと日本に帰ってからも、私が自分自身を取り戻すための大切な道標になるはずだ。
「Instagramに旅の様子を投稿していくつもりだから、よかったら見てね」
“I’m really looking forward to it. Take care, okay? And if anything comes up in Malacca, just reach out to my friend. Don’t hesitate, alright ? “
「ええ、楽しみにしてる。気をつけてね。マラッカで困ったら、教えた私の友人に連絡するのよ? 遠慮は禁物なんだから!」
リリーの力強いハグに背中を押されるようにして、私は瞳を潤ませながら家を出た。
クアラルンプールからマラッカへの移動は、一度経験した高速バスを選んだ。ネットで予約したチケットは、座席指定込みでわずか六百円程度。日本ならランチ代にもならない金額で、隣の街へと運んでくれる。お財布に優しいこの「自由」が、今の私には心地いい。
十二時発のバスに乗り込むと、隣には若い女性が座っていた。一人旅だろうか、それとも仕事? そんな想像を巡らせながら窓の外を眺める。
車酔いが怖くてスマホを置いた代わりに、流れる景色が映画のように脳裏に焼き付いていく。どこまでも続くパーム油のプランテーション、時折現れる極彩色の家々。
二時間後、バスが終点に滑り込んだとき、隣の女性を待っていたのは恋人らしき男性だった。再会を喜ぶ二人の背中を見送りながら、胸の奥が少しだけチクリと痛む。けれど、それは以前のような引き裂かれるような痛みではなく、どこか遠い国の出来事を眺めているような、淡い感傷に変わっていた。
巨大なバスターミナル「Melaka Sentral マラッカ・セントラル」は、百以上のテナントがひしめく。
まずは腹ごしらえと、構内の食堂で『Nasi Lemak ナシレマ』を注文する。ココナッツミルクの香りが鼻をくすぐり、サンバルの辛みが舌を刺激する。ピーナッツと小魚の食感がアクセントになり、混ぜるごとに味が変わる。この「混沌とした調和」が、今の私には何よりのエネルギー源だ。
リリーの強い勧めもあって、移動は迷わずGrabを選んだ。「Taxi! Taxi!」と声をかけてくるおじさんたちの勢いに圧倒されそうになるけれど、私はもう、賢い旅人の術を知っている。
やってきた車を運転していたのは、屈託のない笑顔の青年だった。
“First time in Malacca? If so, you really should try the chicken rice balls. And Jonker Street at night is absolutely great—you’ll love it ! “
「マラッカは初めて? だったらチキンライスボールは絶対に食べて。それから夜のジョンカー・ストリートも最高だよ!」
そんな彼の陽気なガイドに耳を傾けているうちに、車は歴史の香りが漂う街並みへと入っていった。
十五世紀のマラッカ王国、そしてポルトガル、オランダ、イギリス――。幾多の国々に統治され、東洋と西洋のエッセンスが複雑に混ざり合った世界遺産の町。レンガ色の建物が並ぶ景色に、パタンナーとしての色彩感覚が心地よく揺さぶられる。
今夜の宿は、リリーと一緒に選んだゲストハウス『Kote 38』。
オランダ広場からほど近く、清潔な女性専用ドミトリーがある。一泊三千円という手頃さながら、評価9.0という数字に違わず、モダンで落ち着いた空間だった。
案内された二段ベッドの下段。カーテンを閉めれば、そこは私だけの小さな空間になる。
(少しだけ、休もう……)
そう思って横になった途端、底なしの眠りが襲ってきた。慣れない土地での緊張、リリーとの別れの寂しさ、そして昨日まで向き合っていた過去の自分。それらすべてが、重い瞼を閉じさせた。《《あの日》》から、眠れなかったことが嘘のように深い眠りに落ちていった。
ふと目が覚めたとき、手元のスマホに表示された時刻は夜の九時を回っていた。
カーテンの隙間から漏れる静かな照明と、遠くで聞こえる誰かの話し声。
(私、こんなに疲れてたんだ……)
お腹は空いていないけれど、喉がカラカラだ。私は寝癖を簡単に整え、財布とスマホを持って外へ出た。
夜のマラッカは、昼間の喧騒が嘘のように穏やかで、少しだけ寂しげだった。近くのコンビニでミネラルウォーターを買い、冷たいペットボトルを頬に当てる。
見上げた夜空は、クアラルンプールで見たときよりも少しだけ広く感じた。
九年間の「想い」をすべて手放して、私は今、一人で世界遺産の町にいる。
明日は何をしよう。何を、見つけよう。
水の滴るペットボトルを握りしめ、私はゆっくりと、宿への道を歩き出した。二十九歳の新しい一歩は、思っていたよりもずっと、自由な音がした。
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