第34話 ◇ 健一の空白、あるいは罰としての朝
本当なら、今頃は都内のシティホテルのスイートルームで、悪友たちとシャンパングラスを傾けているはずだった。
「ついに年貢の納め時だな、健一」
「すみれちゃんを泣かせたら承知しないぞ」
そんな、ありふれた、けれど最高に幸せな野次に包まれて、独身最後の夜を飲み明かしているはずだったのだ。
しかし、現実に健一がいたのは、静まり返ったマンションのベッドの上だった。
カーテンの隙間から、無慈悲なほどに明るい朝日が差し込んでいる。
五月十日、日曜日。
すみれの誕生日であり、二人が「夫婦」になるはずだった日。
「大安とか、お日柄にはこだわらなくてもいいんじゃないかな。私たち二人が、これからずっと仲良くしていければ、それで十分。ね、大丈夫だよ。それに……あの式場のプランナーさん、すごく素敵な方だったでしょ? 私、あそこに決めたいな」
普段は俺の意見を優先してくれることの多いすみれが、珍しく強く希望した結婚式場だった。担当の佐々木さんとはすっかり意気投合していたようで、打ち合わせの帰りに二人で食事に出かけるほど、彼女はあの場所と、そこでの未来を楽しみにしていた。
健一は天井の一点を見つめたまま、動けずにいた。指先ひとつ動かすのにも、何十キロという重りがついているような錯覚に陥る。
すみれが会社を辞め、千葉の実家からも姿を消したと聞いたのは十日ほど前のことだ。彼女の母親から震える声で告げられた事実に、健一はただ「申し訳ありません」と繰り返すことしかできなかった。
(どうして、あんなことになったんだ……)
今さらながら、自分のしでかしたことの愚かさに、吐き気がした。
浮気、と言い切るにはあまりに浅はかで、遊び、と切り捨てるにはあまりに罪深い裏切り。
大学二年から付き合い、九年。
すみれは健一にとって、空気のように当たり前で、けれど何よりも強固な人生の土台だった。彼女がいなくなる世界など、一度だって想像したことはなかった。
姿を消されて初めて、自分がいかに彼女という存在の上に胡坐をかいていたか、そして彼女がどれほどかけがえのない女性だったのかを、今さら、嫌というほど思い知らされている。
パタンナーとして、夜遅くまで自分のウェディングドレスの型紙を引いていた彼女。
デート中も街ゆく人の服の仕立てを観察して、「あの袖の付け方、面白いね」とはしゃいでいた彼女。
結婚式のために、大好きだった甘いものを断ち、一年かけて必死にダイエットをしていた彼女。
そのすべてを知っていたはずなのに。
一番近くで、彼女の努力と愛を見ていたはずの自分が、そのすべてを木っ端微塵に破壊した。
「……っ」
ふいに、熱いものが目尻から耳へと伝い落ちた。
悲しいわけではない。悲しむ資格など、自分にはない。これは、後悔という名の泥が、目から溢れ出しているだけだ。
一度流れ出したそれは、止まることを知らなかった。鼻の奥がツンと痛み、喉が痙攣するように鳴る。
今日、五月十日。彼女は二十九歳になった。
本来なら、披露宴のクライマックスで、健一が自ら焼いたバースデーケーキとともに、サプライズですみれの名前を呼ぶ予定だった。
エプロン姿でケーキを運ぶパフォーマンスを見せれば、すみれの感激も思うがままに手に入れられたはずだ。
白いドレスに身を包んだ彼女は、きっと少し照れながら、世界で一番綺麗な笑顔を見せてくれただろう。
「すみれ、誕生日おめでとう……」
声に出すと、さらに涙が溢れた。枕がじわりと湿っていく。
「そして、ご……め……んっ。うっ……ごめんっ、すみれ……っ」
何度謝っても、彼女には届かない。彼女が今、どこで、どんな顔をしてこの朝を迎えているのかすら、今の健一には知る術もなかった。
九年。
一人の女性の、最も輝かしい二十代の全てを自分に預けてくれた彼女に対して、自分が返したのは、最低の裏切りと、居場所を奪うという暴力だった。
健一は、ようやく重い体を起こし、洗面台の前に立った。
鏡の中には、無精髭が伸び、目は真っ赤に腫れ、精彩を欠いた男の成れの果てがあった。
一ヶ月前まで、自分は「前途有望なエリート社員」で、「完璧なフィアンセ」だったはずだ。それが今や、何一つ守れなかった、空っぽの抜け殻だ。
ふと、部屋の隅に置かれたままの、自分用のタキシードの箱が目に入った。
それを開ける勇気はなかった。そこには、彼女が命を削るようにしてミリ単位の調整を重ねた、あの完璧なシルエットが待っている。
もし、時間を巻き戻せるなら。
もし、あの日、あの場所に自分がいなければ。
いや、そんな仮定に意味はない。
大切な彼女はもう、いないのだ。
健一は蛇口を全開にし、冷たい水で顔を洗った。
今日から始まるのは、祝福のない日々。
自分が愛していたはずの女性が、どこにいるかもわからぬまま、ただ罪悪感だけを噛み締めて生きる、果てしない罰。
「……すみれ」
クアラルンプールの夜空の下で、彼女が『くまのスミレ』と見つめ合っていることなど、この時の健一は知る由もなかった。
ただただ、静まり返った東京のマンションの一室で、彼は止まらない涙とともに、彼女の名前を呪文のように繰り返していた。
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