第33話 レイクシンフォニー、新しい夜明け
日没から三十分。空が濃密な藍色に溶け込む「ブルーアワー」が訪れると、『PETRONAS Twin Towers ペトロナス・ツインタワー』はそれ自体が巨大な結晶体になったかのように、白銀の輝きを放ち始めた。
KLCC公園の池のほとり、私は独り、その圧倒的な光を見上げていた。
四週間。
あの悪夢のような夜から、一ヶ月近い月日が流れた。
日本を飛び出したばかりの頃は、ただ心臓の奥を掻きむしられるような痛みから逃げ出すことだけで精一杯だった。けれど、クアラルンプールの湿り気を帯びた夜風に吹かれていると、荒れ狂っていた感情の波が、少しずつ引いていくのを感じる。
私は、静かに自分に問いかけ始めた。
――なぜ、あんなことになったんだろう。
健一との九年間。私たちはいつの間にか、お互いを「大好きな恋人」ではなく、自分の人生を構成する「動かない背景」のように扱ってはいなかっただろうか。
パタンナーとして、私は完璧な曲線を追い求めてきた。けれど、自分たちの関係の歪みには、あえて目を逸らして、無理やり型紙に押し込めていたのかもしれない。
日本を発つ前、手元に残した古いスマホの画面には、健一からの不在着信が何度も執拗に残されていた。一度だけ、震える指で再生したボイスメッセージ。
『すみれ、頼むから話を聞いてくれ。頼む! 会いたいんだ……』
途切れがちな彼の声に、かつての優しさを探そうとして、すぐにやめた。
相手の言い分を聞くべきか。それとも、このまま一切を断ち切るべきか。以前の私なら、物分かりの良いふりをして「話し合い」という名の妥協点を探しただろう。けれど、一ミリの狂いも許さないシーチングの組み直しを繰り返してきた私が、今さら、自分の人生に妥協の縫い目を作ることはできなかった。
「……私は、自分を裏切るわけにはいかないのよ」
そう自分に言い聞かせても、心の奥底に染み付いた記憶は、時折予期せぬ場所で疼き出す。
クアラルンプールの雑踏で、あるいは観光地の人混みですれ違う背の高い男性。その広い背中や、少しせっかちな歩き方を見るたびに、心臓が痛いほど跳ねる。「健一くん?」と口に出しそうになって、喉の奥で言葉を飲み込む。ここがマレーシアだと分かっていても、私の本能は、無意識に彼という影を追いかけてしまうのだ。
気づけば、今の旅で使っているスマホではなく、機種変はずの「古いスマホ」をバッグの底から探し出そうとしている自分がいる。新しいメッセージが届いていないか、彼は今、どんな言葉で私を繋ぎ止めようとしているのか。確認したところで、傷つくだけだと分かっているのに。
そのたびに、私は自分の指先をぎゅっと握りしめる。
かつて愛した人の声を、今の私の人生に混ぜるわけにはいかない。
私はゆっくりと深呼吸をして、目の前のペトロナス・ツインタワーを見つめた。過去という「解いた糸」を、もう一度縫い合わせるつもりはない。私はただ、この異国の風に吹かれながら、新しい自分だけの線を引いていくのだ。
夜九時。広場の池で、噴水ショー『レイクシンフォニー』が始まった。
オーケストラの調べに合わせて、数百もの水柱が夜空へと突き上げられる。赤、青、金。目まぐるしく変わる光の粒子が、水面にリフレクションを描き、空と地上の境界を曖昧にしていく。
水は、激しく形を変えながらも、最後には必ず元の静かな水面へと戻っていく。
私の痛みも、いつかはこうして凪ぐ日が来るのだろうか。
ふと、スリアKLCCの地下で買ったばかりのバティックの感触を思い出した。
職人の手で染められた、力強いバティックの文様。
あの布のように、幾度も染料に浸かり、蝋で防染され、それでもなお美しい色を宿す。そんな強さを、私は手に入れられるだろうか。
食事は、タワーの足元にある有名チェーン店『Madam Kwan's』で、名物の『NASILEMAK ナシレマク』を選んだ。ココナッツライスを一口運ぶと、芳醇な香りとサンバルソースの強烈な辛みが、痺れていた味覚を叩き起こす。
「辛い……。でも、すごく美味しい」
アルコールはなくても、スパイスが血を巡らせてくれる。生きている。私はまだ、ちゃんと食べることができる。
もし日本にいたら、私は今頃、披露宴のテーブルを回って、偽りの笑顔を振りまいていただろう。
この灼熱の夜景も、鼻を突くスパイスの匂いも、リリーたちの温かいお節介も知らぬまま。
あの九年を捨ててまで手に入れたかったものが、これだったのかはまだ分からない。けれど、目の前で弾ける噴水の音を聞きながら、私は確信していた。
明日、私はここを発つ。
悲しみは消えない。けれど、この街でもらった優しさを、私はきっと忘れない。
私はスマホを取り出し、夜空をバックにした『くまのスミレ』を撮影した。
小さな『くまのスミレ』が、ツインタワーの光を反射して笑っているように見えた。
キャプションはまだ、何も思いつかない。けれど、写メを撮る指先には、確かな力が宿っていた。
「……健一。私、二十九歳になったのに。隣にあなたがいない誕生日なんて、初めてだよ……。
……バカ、健一」
五月十日。今日、二十九歳になった私へ。
誕生日おめでとう。そして、新しい世界へようこそ。
私は最後の一口を飲み込み、力強く席を立った。
週明け、私は古都マラッカへと向かう。そこにはきっと、私がまだ見たことのない、鮮やかな色彩が待っているはずだ。
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