第32話 リリーの秘密と、五月の「時ぐすり」
クアラルンプールでの滞在も、あと数日に迫っていたある日の午後。
私はリリーの妹、十七歳のアイシャとリビングで並んで座っていた。アイシャは名前の通り、生き生きとしたエネルギーに満ちた女の子で、リリーよりも少し背が高い。来年からは大学予備課程に進む予定だという彼女の英語は、若者らしいテンポの良さがあって、話しているとこちらの気分まで明るくなる。
“Sumire, when you’re in Malacca, you should check out a batik workshop. You’ll definitely love it!”
「すみれ、マラッカに行ったらバティックの工房に行ってみて。絶対に気に入るから!」
アイシャは、スマホで器用に画像を見せながら教えてくれる。その屈託のない笑顔を見ていると、日本で二十九歳の壁に怯えていた自分が、ずっと遠い過去の自分のように思えてくる。
「ありがとう、アイシャ。楽しみだわ。……そういえば、リリーは今日もお仕事?」
“Yeah, but she said she’s gonna head out early today and go see Amin.”
「うん。でも今日は早めに切り上げて、アミンに会いに行くって言ってたよ」
「アミン? お友達?」
私が首を傾げると、アイシャは「Oops! (あ!)」と口を押さえた。けれど、すぐに観念したように肩をすくめる。
“Oh no… I just said it. Amin’s Lily’s fiancé.”
「あーあ、言っちゃった。アミンは、リリーのフィアンセだよ」
思わず、瞬きを繰り返した。
「フィアンセ……。リリー、婚約してたの?」
“Yeah, but Lily told the whole family not to bring up her fiancé around Sumire. She just broke up with hers, so they didn’t want to remind her. My parents were doing everything they could to hide it. So hey, This stays between us, alright? “
「そうなの。でもね、リリーが家族全員に『すみれの前で婚約者の話は絶対にするな』って緘口令を敷いてたんだ。すみれが婚約者と別れたばかりだから、思い出させちゃダメだって。ママもパパも、必死で隠してたんだよ。今の、絶対内緒にしててね!」
アイシャの慌てた様子に、私は思わず吹き出してしまった。
リリー……。あんなにサバサバしている彼女が、私の見えないところでそんなにも繊細な気遣いをしてくれていたなんて。胸の奥に、じんわりと温かい灯がともるのを感じた。
その日の夜、夕食を終えてリリーと二人でベランダに出た。
夜風が心地よく、遠くにペトロナス・ツインタワーの銀光が微かに見える。私は手元の温かいお茶を一口飲み、リリーに向き直った。
「リリー、婚約者って、どんな人なの? どのくらい付き合って結婚を決めたの?」
リリーの表情が、目に見えて凍りついた。持っていたカップがカチリと鳴り、その目は「どうしてそれを知っているの」と驚きで丸くなっている。そのあまりの動揺ぶりに、私はこらえきれなくなった。
「プッ……! リリー、あなた、なんて顔してるのよ! ハハハ!」
夜の静寂を切り裂くように笑い出した私を見て、リリーは最初こそ呆然としていたが、やがてすべてを察したように、肩の力を抜いて大きく息を吐き出した。
“……Who told you? Who did you hear that from? Aisha, wasn’t it? I told her over and over not to say anything! “
「……誰? 誰から聞いたのよ。アイシャね! あの子ったら、あれほど言うなって言っておいたのに!」
「ふふふ。アイシャを叱らないであげて。話してくれてよかったわ。私のために気を遣ってくれていたんでしょ? ありがとう、リリー」
リリーはバツが悪そうに、けれど優しく目を細めた。
“……Because it’ll remind you of him. “
「……だって、思い出しちゃうでしょ。彼のこと」
「大丈夫よ。もちろん、まだ思い出すことはあるけど……リリー、『時ぐすり』って知ってる?」
“Toki-Gusuri ?”
「トキ……グスリ?」
「日本語でね。時間は最高の薬だって意味。時間が解決してくれると思うから、私は大丈夫よ」
そこからは、堰を切ったように恋バナが始まった。
リリーの婚約者・アミンは、真面目で少しだけシャイなエンジニアであること。共通の友人の紹介で出会って、もう四年になること。結婚の決め手は、アミンがひどい風邪を引いたときに、リリーが不器用ながらも必死に看病した「お粥」の味だったこと。
「プロポーズは? リリーの方からしたの?」
“No way! If I had to be the one to say it, I wouldn’t want him. He was on one knee, shaking like a leaf… it was painful to watch.”
「まさか! 私に言わせるような男だったら、こっちから願い下げよ。彼、ガタガタ震えながら膝をついてさ。見てるこっちが恥ずかしかったわ」
そう言って笑うリリーの横顔は、私がこれまで見たどんな景色よりも輝いて見えた。
結婚式の予定や、どんなドレスを着たいか。パタンナーとしての職業病か、私はいつの間にか、リリーの体型に合わせた最適なカッティングや、マレーシアの気候に合うシルクの選び方を熱っぽく語っていた。
「ねえ、リリー。いつか、あなたのウェディングドレス、私に型紙を引かせてくれない?」
冗談半分、本気半分。
けれどリリーは、驚いたように目を見開き、それから今までで一番綺麗な笑顔で頷いた。
“Amazing. If I can wear a dress by the world’s best pattern maker, I’ll have Amin propose to me all over again.”
「.……最高ね。世界一のパタンナーが作ったドレスを着られるなら、もう一度アミンにプロポーズし直させなきゃ」
まるで、神様のオーケーが出たような気がした。
あんなに苦しかった「結婚」という言葉が、リリーの話を聞いている間、ただの温かい祝福として心に届いた。
私は、夜空に向かって大きく息を吐き出す。肺の奥に溜まっていた熱い塊が、すべて夜風に溶けていくようだった。
時間はかかるかもしれない。けれど、私の心にもいつか、リリーが今日見せてくれたような、濁りのない幸せが訪れるのかもしれない。
クアラルンプールの夜は、どこまでも優しく更けていった。
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