第30話 水色の迷宮、セントラルマーケット
クアラルンプール滞在二日目の夜。
お世話になっているリリーの家で、家族との温かな団欒の時間を過ごしていた。
「What are you up to tomorrow, Sumire?
(明日は何をする予定なの? すみれ)」
リリーのお母さんが、優しい手つきで紅茶を淹れながら話しかけてくれた。
「それが、まだ特に何も決めていないんです。また市内をのんびり散策しようかな、と思っているくらいで」
「Oh, Then you might want to check out the Central Market. I think there’s a lot there that’ll spark your creativity. You’ll probably love it.
(そう。それなら、セントラルマーケットに行ってみるといいわよ。あそこなら、すみれの感性を刺激するものがたくさんあると思うわ。きっと楽しめるはずよ)」
場所は、今夜リリーたちと食事をしたチャイナタウン・プタリン通りのすぐ隣だという。
寝る前にベッドの中で検索してみると、そこは活気あふれる超人気スポットだった。まだ旅の途中だから、大きな荷物になるお土産を買うつもりはないけれど、異国の手仕事に触れるのはパタンナーとして血が騒ぐ。
検索画面には、移動には配車アプリの『Grab』が必須だと書かれていた。
これからのひとり旅、自分の足で自由に動くためには避けられないツールだ。私はアプリをインストールし、支払い方法や必須事項を一つずつ入力していく。
(よし、これで明日からはどこへでも行ける)
デジタルな「自由の翼」を手に入れたような感覚に、少しだけ胸が高鳴った。
翌朝、出勤するリリーと一緒に家を出た。
LRTパサール・セニ駅から歩いてわずか二分。目の前に現れたのは、淡い水色と白のコントラストが美しい、アール・デコ調の建築物だった。
「……可愛い」
思わず声が漏れた。イギリス統治時代の一八八八年に食料品市場として建てられたというその外観は、当時の優雅な雰囲気をそのままに、凛としてそこに佇んでいる。この絶妙な色彩感覚、私の好みのど真ん中だ。
ふと見ると、広場の入り口に巨大なドロップピンのオブジェを見つけた。
ここだ、という真っ赤なマーク。
「スミレ、出番よ」
私はバッグから『くまのスミレ』を取り出した。真っ青な空と、水色と白のマーケット。真っ赤なドロップピンと、万歳をしたスミレ。
カメラのシャッターを切る。画面の中の『くまのスミレ』は、新しい世界を歓迎するように、これ以上ないほど誇らしげに見えた。
一歩足を踏み入れると、外の静けさが嘘のような熱気が押し寄せてきた。
二階建ての館内は、一階が色鮮やかな雑貨や工芸品のブース。そして二階には、私が最も得意とする領域——服飾関係のショップが迷路のようにひしめき合っている。
マレー系、中華系、インド系。
多様な文化が混ざり合うこの国ならではのテキスタイル、刺繍、カッティング。
日本で整然としたサンプルに囲まれていた頃には決して出会えなかった、剥き出しの「創造力」がそこにはあった。私は、吸い寄せられるように人混みの中へと足を進めた。
雑貨が並ぶ一階を歩いていると、少し不思議なものに目が留まった。
マレーシア・ランカウイ島の名産品だという『ナマコ石鹸 Sea Cucumber Soap』。現地の言葉では『サブン・ガマッ』と呼ぶらしい。
「えっ、あの、ナマコ……!?ヌルヌルの?」
正直、最初はぎょっとしてしまったけれど、説明を読んでみると評価は驚くほど高い。ナマコの成分には高い保湿作用や、傷の治癒を助ける効果があるそうで、洗い上がりは驚くほど「しっとり」するのだとか。ラベンダーやプルメリア、ジャスミンなど、南国らしい香りのバリエーションも豊富だ。
まだ帰国の予定はないから、誰かへのお土産を買うのはお預け。けれど、『Nirmala Sari』というお店で見つけた爽やかなレモングラスの石鹸は、どうしても素通りできなかった。
(この包みの布、可愛い……)
石鹸を包んでいるのは、『バティック』と呼ばれる伝統的なろうけつ染めの生地。シンガポールでも見かけたけれど、ここマレーシアでは日常着として身に纏っている人をよく見かける。色鮮やかな花々や植物をモチーフにした繊細な文様は、見ているだけで心が浮き立つようだ。
一個三百円から八百円程度という手頃さも手伝って、自分への小さな贈り物として購入した。
「泡立てネットでもこもこにして使ってくださいね」
店員さんのアドバイスを思い出し、今夜のバスタイムが少しだけ楽しみになる。
(綺麗。いつか、あの布が染め上げられるバティック工房も、この目で見てみたいな)
パタンナーとして、そして一人の旅人として。私の心の中の「やりたいことリスト」に、また新しい一行が書き加えられた。
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