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【片道切符で意国を旅歩く 】〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜  作者: 恋せよ恋
マレーシア編 チキンライスと、温かい家族

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第26話 ◇ 慎二の怒りと、健一の涙

 インターホンを押した瞬間から、嫌な予感はしていた。


 ドアの向こうから聞こえてきた足音は重く、間延びしていて、慎二の知っている『優秀でスマートな兄』健一のそれとはまるで違っていた。普段の兄なら、もっと軽やかに、迷いなくドアを開けるはずだった。


 ガチャ。


 扉が開いた瞬間、慎二は言葉を失った。


「……兄貴?」


 目の前に立っていたのは、確かに健一だった。だが、そこにいたのは、慎二がずっと見上げてきた“あの兄”ではなかった。


 頬はこけ、顎のラインは鋭くなりすぎている。目の下には濃い影が落ち、整えられていたはずの髪は無造作に伸びていた。急いで羽織ったのか、シャツはしわだらけで、ボタンも一つ掛け違えている。


 そして何より、その目だ。


 いつもは自信と余裕に満ちていた視線が、どこか空洞のように濁っていた。


「……慎二か」


 かすれた声。低く、弱々しい。


 慎二は思わず一歩踏み込んだ。


「……どうしたんだよ、その顔」


 返事はなかった。ただ、健一はわずかに視線を逸らしただけだった。


「……上がれよ」


 短くそう言われ、慎二は無言で部屋に入る。


 そして、さらに言葉を失う。


 そこは、かつての健一の部屋とは思えないほど荒れていた。


 脱ぎ捨てられたシャツ、床に転がるネクタイ、空のペットボトル。テーブルの上には食べかけのコンビニ弁当が放置され、シンクには洗われていない皿が積み上がっている。微かにこもった臭いが、生活の乱れをそのまま物語っていた。


 慎二の中で、何かが軋んだ。


(……こんなの、兄貴じゃない)


 慎二にとっての健一は、いつだって「余裕あふれるカッコいい男」だった。


 同じサラリーマンとして見ても、憧れずにはいられなかった。身体にきちんと合った上質なスーツを着こなし、ネクタイやチーフ、小物の色合わせはさりげなく洗練されている。腕時計や靴も、派手なブランドではないが、確かな目で選ばれた上級品。過不足のないセンスがあった。


 ヘアスタイルも常に流行の先端を押さえて整えられ、肌も丁寧に手入れされている。清潔感と余裕のどちらもが、自然に滲み出ていた。


 兄貴は、モテるんだろうな。


 そう思わせる男だった。


 それが、今はどうだ。


 その面影すら、かろうじて残っているだけだ。


 慎二は奥歯を強く噛みしめた。


「……何でだよ」


 低く、押し殺した声が漏れる。


 健一は反応しない。


 その沈黙が、慎二の中の何かを決定的に切った。


「何で浮気なんかしたんだよ!」


 怒鳴り声が、狭い部屋にぶつかって跳ね返る。


「結婚式が一ヶ月後に迫ってたんだぞ!? まだ遊び足りなかったのかよ!」


 健一の肩が、びくりと震えた。


「すみれ姉さんの、何が不満だったんだよ!」


 慎二の声は、怒りだけではなかった。そこには、どうしようもない戸惑いと、裏切られたような痛みが混じっていた。


「……あんな人、いないだろ。優しくて、ちゃんとしてて……兄貴のこと、本気で大事にしてて」


 一歩、また一歩と詰め寄る。


「そんなにいい女がいたんならさ!」


 拳が震える。


「誠意を持って、すみれ姉さんと別れてからにしろよ!!」


 言い切った瞬間、部屋の空気が凍りついた。


 しばらく、誰も動かなかった。


「……ごめん」


 やがて、かすれた声が落ちた。


 慎二は目を見開く。

 健一は俯いたまま、肩を震わせていた。


「俺が……バカだったんだ」


 ぽたり、と床に何かが落ちる音がした。


「すみれが、大事だってことに……気づいてなかった」


 言葉が途切れるたびに、呼吸が乱れる。


「本当に……バカだった……」


 嗚咽が漏れる。あの兄が、泣いていた。

 声を殺すこともできず、ただ子どものように。


 慎二の中で、怒りが別の形に変わりかける。


 だが、怒りは消えない。

 拳を握りしめたまま、慎二は兄を見下ろした。


(……なんだよ!今さら、遅いんだよ)


 胸の奥が、焼けるように痛い。


(遅ぇよ!)


 どれだけ後悔しても、時間は戻らない。

 どれだけ謝っても、傷つけた事実は消えない。


 それでも。目の前で崩れているのは、間違いなく自分が憧れていた兄だった。


 完璧だと思っていた男の、どうしようもなくみっともない姿。


 慎二はゆっくりと息を吐いた。握りしめた拳は、まだ解けない。殴りたい衝動が、確かにそこにある。


 だが、それ以上に――


(……こんな兄貴、見たくなかった)


 喉の奥が詰まり、言葉が出てこない。


 ただ、荒れた部屋の真ん中で、兄の泣き声だけが、やけに大きく響いていた。


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