第25話 マレーシアからの絵葉書
私はバッグから絵葉書を取り出した。
クアラルンプールの街並みが鮮やかに描かれたフォトカード。
宛先は、まずは千葉の実家だ。
『お父さん、お母さん。勝手に出てきてしまってごめんなさい。
私は今、マレーシアにいます。
毎日、驚くほど美味しいものを食べて、新しい友達もできました。
二十九歳の誕生日は、友人家族と名物料理を食べて過ごすつもりです。
もう少しだけ、自分の足で歩いてみます。
ひとり旅の記録を、インスタに残しています。
@letters.from.sumire
体に気をつけて、元気でね』
そして、職場の先輩である真理子さん。
『真理子さん、お餞別をありがとうございました。
私は無事にシンガポールに到着し、素敵な友人ができました。
今は彼女と一緒にクアラルンプールへ移動し、ご実家でお世話になっています。
旅の記録をインスタに。ゆっくり更新しています。
@letters.from.sumire
真理子さんもお体に気をつけて、お仕事頑張ってください』
最後の一人は、健一の弟の慎二君だ。
『慎二君、きちんと説明もせずに居なくなってしまってごめんなさい。
心配をかけてしまったよね。
あの時は、慎二君にさえ合わせる顔がないほど余裕がなくて……本当にごめんなさい。
私は今、東南アジアを一人で旅しています。意外でしょう(笑)。
インスタ始めて、旅の記録ゆるく上げてます。
IDは @letters.from.sumire
ただ、健一さんには教えないでください。彼とはもう、縁を切ったから。
いつか帰国する時には、必ず慎二君に挨拶に行きます。
その日まで、体に気をつけて、お仕事頑張ってね』
書き終えると、肩の荷がふっと軽くなった。
パタンナーとして培った「正確さ」は、これからは型紙を引くためだけでなく、自分の心の声を正確に聞き取るために使おうと思う。
立ち上がり、深く息を吸い込む。
空はどこまでも高く、遠い。
次に目指すべき場所はまだ決まっていないけれど、この淡いブルーの小花が咲くスカーフがあれば、どこへだって行ける気がした。
MRTマスジッド・ジャメ駅から、旧市街の熱気を感じながら歩くこと約十分。スルタン・アブドゥル・サマド・ビルのすぐそば、ムルデカ広場の向かい側に、それはあった。
旧KLシティ・ギャラリーの前に設置された、鮮烈な赤が目を引く『I LOVE KL』のモニュメント。
SNSをスクロールしていれば、嫌でも目にするクアラルンプールの象徴的な景色。かつての私なら、「ベタな観光地ね」と眺めるだけで通り過ぎていたかもしれない。けれど今の私は、その真っ赤な文字の前に立ち、バッグの奥から一匹の相棒を取り出した。
それは、シンガポール滞在中に、日本から持参した、かつて働いていたアパレルブランドのオリジナル生地の端切れで作り上げた、私お手製のロマンティック柄の『くまのマスコット』だ。どこか物語めいた甘さをまといながらも、なんとも言えない愛嬌を放つ、自分でも最高傑作だと思っている「ぶさかわ」な表情。
私はバッグから、旅の必需品である携帯用のソーイングセットを取り出した。ベンチの端に座り、先ほど買ったばかりのブルーの小花柄のスカーフの端を、慎重に切り取る。
職業柄、ただの四角い布を、どう折れば、この小さなクマの頭に馴染むか。私は、平面の布を立体へと落とし込むパタンナーの勘を働かせ、端をわずかに折り込み、指先でドレープを整える。即座に慣れた手つきで針を動かし、くまのマスコットとお揃いの『小さなトゥドゥン』を作り上げた。
最後に、その小さな小花柄のスカーフを、くまの頭にふわりと丁寧に巻きつける。
「よし、マレーシア仕様ね!」
真っ赤なロゴを背景に、私と同じブルーの装いを纏った「《《くまの》》スミレ」が、誇らしげに胸を張っているように見えた。
たとえ職を捨て、国を飛び出してきた身であっても、指先に染み付いた「縫製」という技術だけは、私を裏切らずにここに在る。
その事実に、ほんの少しだけ、誇らしい気持ちが胸を掠めた。
私はスマートフォンのレンズ越しに、この街でお洒落をした小さな相棒の姿を、しっかりと記録に収めた。
自撮りをする勇気はまだないけれど、この『くまのスミレ』なら、どこへだって連れていける。カメラを構え、真っ赤なロゴを背景に、異国の風を纏った分身をファインダーに収めた。この旅の真の主役は、私というより、この小さな旅人なのかもしれない。
今回の旅立ちを機に、私はInstagramのアカウントを開設した。
「今さらインスタ?」という自分の中の呆れた声も聞こえたが、ただ過ぎ去っていく記憶を、指の間からこぼれ落ちる砂のようにしたくなかったのだ。たとえ誰に届かなくとも、自分が世界を歩いた証として、記憶の型紙を一枚ずつ整理していく場所が欲しかった。
投稿は、『くまのスミレ』を縫い上げた、あの瞬間から始まっている。
第一枚目の写真。そこには、片道のチケットの上にちょこんと座る、テディベアがいた。不安を体現したような、どこか頼りなげな背中。
スクロールして過去の投稿を遡ると、わずか九日前のことなのに、画面越しの自分はすでに遠い過去の住人のように思える。
シンガポールの、あの狭いカプセルホテルの寝具の上に無造作に寝転ぶ、くまのスミレ。
活気溢れるホーカーで、湯気を上げるヌードルの容器を不思議そうに覗き込む、くまのスミレ。
色鮮やかなヒンドゥー寺院の片隅で、幸福な結婚式を、静かに、けれどどこか寂しげに見つめる、くまのスミレ。
そして、マーライオンが吐き出す豪快な水しぶきを浴びて、まるで全身で水浴びを楽しんでいるかのように見える、おどけた表情のくまのスミレ。
どの写真も、カメラを向けているのは私なのに、主役はいつもこの小さな旅人だった。
九日間の足跡を指先でなぞる。
そこには、パタンナーとして培った「正確さ」や「計算」は一切ない。ただ、その時々に心が動いた瞬間が、不器用な構図のまま切り取られている。
一人の女性として、二十代の最後を裏切りで締めくくられた惨めな私。
けれど、この画面の中にいる「くまのスミレ」は、そんな私の事情なんてお構いなしに、異国の空気を吸い込み、異国の味を知り、着実に「冒険家」へと成長していた。
「……あなたはいいわね、身軽で」
モニュメントの前で、バッグに揺れるくまの頭を指先で軽く弾く。
この子が笑っているように見えるなら、私もまだ、大丈夫だ。
私は新しい投稿を作成した。
キャプションには一言だけ。
『クアラルンプールにて。新しいスカーフ、似合ってる?』
送信ボタンを押すと、マレーシアの午後の強い光の中で、スマホが小さく震えた。
過去の投稿の上に、また新しい記憶が縫い合わされていく。型紙通りではない、世界にたった一つしかない、私だけの人生のドレスを仕立てるために。
シンガポールの空港で、不安に押し潰されそうになりながら必死に選んだあのカプセルホテル。今見返せば、「どうしてあんなに狭い場所をあんなに真剣に選んでいたんだろう」と可笑しくなる。けれど、あの場所を選んだからこそ、ジュリアと出会い、リリーと繋がることができた。
人生という布地は、どこでどう裁断され、縫い合わされるか分からない。
もし、一分でも、一秒でも選択がズレていたら、私は今、この赤いモニュメントの前に立っていなかっただろう。
旅には、人知の及ばぬ何かが宿っている――。
特定の宗教を熱心に信仰しているわけではないけれど、国立モスクの静寂と、この街の不思議な縁に触れていると、自然とそんな謙虚な気持ちが芽生えてくる。
クアラルンプールの湿り気を帯びた空気と、少しだけ強くなった午後の光。それをそのまま、私の新しい歴史として刻んでおく。
スマホをポケットにしまい、私は再び歩き出した。
次にこの『くまのスミレ』が見る景色は、どんな色をしているだろう。
期待と、少しの緊張。そのバランスが、今は心地よいリズムとなって、私の足を前へと進ませていた。
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