第24話 ターコイズブルーの静寂と、過去
視界が開けた先に現れたのは、息を呑むほど鮮やかなターコイズブルーの星型ドームだった。
国立モスク、『マスジッド・ネガラ Masjid Negara』。
天を突くようにそびえ立つ七十三メートルの尖塔と、幾何学模様の透かし彫りが施された白い壁。入り口で靴を脱ぎ、無料貸し出しの紫色のローブを纏って中へ入る。頭には買ったばかりの青い小花が巻かれている。
一歩踏み出すと、ひんやりとした大理石の感触が足の裏から伝わってくる。外の熱気が嘘のような、静謐な空間。
広大な礼拝堂の入り口近く、壁際に腰を下ろしてみる。どこからか、読経のような、あるいは荘厳な音楽のような低い調べが響いてきた。
目の前に広がるのは、計算され尽くしたイスラム装飾のモザイク模様。
パタンナーとして、数ミリのズレも許さず図面を引いてきた私にとって、この完璧な対称性と色彩の調和は、言葉にできないほど心に安らぎを与えてくれた。
日本を飛び出してから、今日で九日目。
「もう九日」なのか、「まだ九日」なのか、自分でも判然としない。けれど、これまでの人生で最も刹那的な時間を過ごしていることだけは確かだ。
私は一ヶ月前まで、健一と暮らしたあのマンションで、結婚という型紙に自分を押し込めて暮らしていたいた。それが今は、クアラルンプールの中心で、一人で電車に乗り、異国の神が宿る場所に座っている。
想像もしていなかった未来。
(本当なら、来週は結婚式だったのにね……)
ふと、胸の奥に封じ込めていた痛みがチリリと音を立てる。
記念日やイベントを大切にする健一の要望で、式は私の二十九歳の誕生日当日に予定されていた。
「一生忘れられない誕生日にしよう」
彼が言った言葉は、皮肉にも、全く別の形で現実になろうとしている。
(こんなことなら、誕生日を結婚式になんてしなきゃよかった。……これじゃ、せっかく新しく歩き出そうとしても、毎年この日が来るたびに引き戻されちゃうじゃない)
自嘲気味に呟いてみる。けれど、かつてのような「重い絶望」はそこになかった。
大理石の床に落ちる幾何学模様の影を見つめながら、私はゆっくりと息を吐き出す。
後数日で、二十九歳。
世間一般では、キャリアや結婚、出産といった「型」に収まることを急かされる年齢だ。誕生日を無邪気に喜ぶには、少しだけ現実を知りすぎてしまった微妙な年頃。
でも。
モスクの静寂の中で、私は不思議と力強い肯定感に包まれていた。
私は今、誰のモノでもない。健一を彩るための装飾品でも、佐藤家の完璧な嫁候補でもない。
ただの「小川すみれ」として、ここにいる。
言葉の壁にぶつかりながら、地図を読み、自分の意志で国境を越え、異国の街を歩き回っている。
(私、まだ、何者にでもなれる……!)
根拠なんてない。けれど、自分の足でこの広い世界を歩いているという事実が、何よりの証明のように思えた。
私は立ち上がり、ローブを返却するために受付へと歩き出した。
次は、この街の象徴である「旧連邦事務局ビル スルタン・アブドゥル・サマド・ビル Sultan Abdul Samad Building」を見に行こう。
来週の誕生日は、結婚式場でドレスを着る代わりに、私は異国の風を纏って歩いているはずだ。そのことが、今は何よりも誇らしく、輝かしいことのように思えてならなかった。
国立モスクの静寂を後にした私は、その足で「スルタン・アブドゥル・サマド・ビル」へと向かった。
目の前に広がるのは、ムガール様式とムーア様式が融合した、レンガ造りの壮麗な建築。中央にそびえ立つ高さ約四十メートルの時計台と、左右に配された銅色のドームが、午後の強い陽光を浴びて鈍く輝いている。
かつてイギリス植民地時代の行政の中枢であり、一九五七年に独立が宣言された場所。歴史の荒波を越えてきたその佇まいは、凛としていて、どこか誇り高い。
私はビルの向かいにある広大な芝生広場、「独立広場 ムルデカ・スクエア Merdeka Square 」のベンチに腰を下ろした。近くのホーカーで購入したばかりの、プラカップに入った『ミーゴレンMee Goreng 』を広げる。
サンバルの刺激的な辛みと、ケチャップマニスの濃厚な甘みが絡み合う、マレーシアの屋台麺。一口運ぶごとに、複雑なスパイスの香りと魚醤の旨みが舌の上で弾ける。
思えば、私は昔からエスニック料理が大好きだった。
けれど、健一は独特の香辛料やパクチーを「妙な匂いがする」と毛嫌いしていたから、二人で外食する際に選択肢に挙がることは一度もなかった。家でも、彼に合わせて和食かイタリアンばかり。
唯一、彼が不在の夜にだけ、こっそりとインドネシア製のインスタント麺『Indomie』のミーゴレンを茹でて、自分を甘やかすのが密かな楽しみだったのだ。
「……私たち、食の好みからして、全然違ってたんだなあ」
小さな呟きが、熱を帯びた風に溶けていく。
九年間、私は「彼が好きそうな私」という型紙に合わせて、自分の好き嫌いさえも少しずつ削り落としていたのかもしれない。実は、共通点なんて数えるほどしかなかったのではないか――そんな疑念が、ミーゴレンのピリッとした辛さと共に胸に広がる。
頭を覆うコットンボイルのスカーフが、時折吹き抜ける風にパタパタと小気味よく揺れた。
好きなものを「美味しい」と心から思える。
ただそれだけのことが、今の私には、何にも代えがたい「独立」の証明のように感じられた。
日本食が恋しくなる気配は、今のところ微塵もなかった。
「独立……か」
かつてこの場所で、人々が新しい国の誕生を祝って歓喜の声を上げたように、私も今、自分の人生の独立宣言をしている最中なのかもしれない。
誰の指示も仰がず、誰の機嫌も伺わず、ただ「私」として存在すること。
周囲では、多国籍な観光客たちが思い思いに写真を撮り、地元の人々が木陰で談笑している。
ふと、昨日リリーと一緒に食べたナシレマのスパイスの香りが鼻をかすめたような気がした。
ここには、私の過去を知る者は一人もいない。
九年間の欺瞞も、婚約解消の惨めさも、ここではただの「過ぎ去ったエピソード」の一つに過ぎないのだ。
二十九歳の誕生日まで、あと四日。
私は新しい自分を祝うための、最高の旅を歩み続けている。
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




