第23話 市内観光と、私のスカーフ
マレーシアの朝は早い。リリーの家族がそれぞれの仕事や学校へ向かう活気の中で、私はリリーと並んでキッチンに立っていた。
「So, Sumire, have you decided what you’re doing today? 」
(すみれ、今日の予定は決めたの?)
リリーがカットしたマンゴーを差し出しながら尋ねる。私は頷き、昨日スマートフォンの地図アプリで何度も確認した目的地を告げた。
「うん。今日はKTMコミューターに乗って、『国立モスクの マスジット・ネガラ Masjid Negara』と『スルタン・アブドゥル・サマド・ビル Sultan Abdul Samad Building』へ行ってみようと思うの」
「Nice! That area is full of Kuala Lumpur’s history, so you’re going to enjoy it. The mosque does lend scarves, but would you like to borrow mine instead?」
(いいわね! あのあたりはクアラルンプールの歴史が詰まっているから楽しめるはずよ。モスクはスカーフの貸し出しもあるけれど、私のを貸しましょうか?)
「ありがとう。でも、自分でも一枚欲しくて。これからの旅の思い出に、お気に入りを見つけるつもりよ」
「That’s lovely! We call it a “tudung,” and you can choose any color or pattern depending on your outfit. Pick one with your sense of style. Something that will make you look your absolute best.」
(それは素敵ね! 私たちはそれを『トゥドゥン』と呼ぶんだけど、服装に合わせて色も柄も自由なの。すみれのセンスで、あなたを一番輝かせる一枚を選んでみて)
リリーの言葉に背中を押され、私は軽やかな足取りで家を出た。
マレーシア鉄道公社(KTMB)が運営する近郊電車、KTMコミューター。車内にはスカーフを巻いた女性や、色とりどりの民族衣装を着た人々が揺られている。クアラルンプール駅で下車、コロニアル様式の美しい駅舎を抜けて歩くこと十五分。
国立モスクへの道すがら、私は運命的な一枚に出会った。
軒先に揺れていたのは、吸い込まれるようなターコイズブルーに、白い小花が繊細に描かれたスカーフだ。
今回の旅、私のワードローブはジーンズ中心の着回しになる。この淡いブルーなら、使い古したデニムの藍色とも、洗いざらしの白シャツとも、パズルのピースが嵌まるように調和するはずだ。手に取ってみると、それはコットンボイル素材だった。
パタンナーの指先が、その質の良さを瞬時に見抜く。薄く、軽く、風を孕むような通気性の良さ。マレーシアの容赦ない湿気と熱気の中でも、この柔らかさなら肌を優しく守ってくれるだろう。
「How much?」
店主から返ってきたのは、驚くほどお財布に優しい答えだった。今の私にとって、それは何よりも大切なポイントだ。私は迷わず購入を決め、その場で新しい「トゥドゥン」の巻き方を習った。
店主に教わりながら、慎重にスカーフを巻いていく。鏡の中に現れたのは、これまでの自分とは全く違う、異国の空気を纏った一人の女性だった。淡いブルーの小花が咲くその布は、私の肌になじみ、どこか新しい強さを与えてくれるように感じられた。
ふと、健一のネクタイやポケットチーフを選んでいた、かつての日々が脳裏をよぎった。
整った容姿の健一には、何でもよく似合った。だからこそ、私は服飾関係に勤務する者としての矜持を込めて、その日の彼の予定に合わせてネクタイとポケットチーフ、小物類のコーディネートを完成させていた。
重要な会議やどんな場面でも外さないディープネイビー。商談で他社を訪問する際には、洗練された印象を相手の記憶に刻むダークグリーン。女性が中心となるプレゼンの場では、上品な色気を漂わせるボルドー。
彼が鏡の前で、私が整えたVゾーンを満足げに確認する。その姿を後ろから見守ることが、私の「幸せ」だと信じて疑わなかった。彼を最高の状態に装飾すること。それが彼を支えることであり、私の愛の形なのだと。
けれど、今ならわかる。
私はこれまで、自分自身の装いよりも、彼を飾ることに心血を注いできた。自分の意志で服を選び、色を決めているつもりだったけれど、その中心には常に「健一」という軸があった。
私のセンスも、技術も、すべては彼という型紙に合わせるための付随物だったのだ。
その歪な関係性を築いたのは、他でもない私自身だったのかもしれない。
「ネクタイ、こっちの方が顔色が映えるわよ」
「今日は大事な商談でしょう? このチーフを挿していって」
始まりは、ほんの少しの気遣いだった。決して、健一が強く望んだわけではない。私が自発的に始めた甲斐甲斐しい世話に、彼が甘え、それがいつしか当然の習慣として定着していっただけなのだ。
もしかしたら、私が彼を「何もしない男」に、そして慢心ゆえに過ちを犯す「ダメな男」へと変えていってしまったのではないか……。
そんな後悔に似た思いが、時折、暗い影のように首をもたげてくる。そして、見えない蔦のように私の喉元をじわじわと締め上げるのだ。私が彼を甘やかしすぎなければ、九年間の結末は違っていたのだろうか、と。
けれど、鏡の中でトゥドゥンを纏った自分と視線がぶつかった瞬間、私はその思考を振り払った。
たとえきっかけが私にあったとしても、不実を選んだのは彼自身の意志だ。過去の自分を責めることで、今の自由まで汚してはいけない。喉を絞める感触を振り払うように、私はスカーフの端をきゅっと結び直した。
「……似合ってる」
小さく呟いた言葉は、誰の承認も必要としない、私自身への確かな賛辞だった。
健一を着飾らせていた過去の自分を否定はしない。けれど、もうあの頃のようには戻らない。私はもう、誰かの引き立て役として自分を消費するつもりはなかった。
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