第22話 多民族の風と、アロー通りの熱気
マレーシアという国が、マレー系、中国系、インド系という三つの民族が共存する多民族国家であることは知識として知っていた。治安も比較的安定しており、日本人の移住先として長年人気があるということも。
けれど、実際にその懐に飛び込んでみると、そこにあるのはガイドブックでは測れない、圧倒的な「生命の躍動感」だった。
リリーの家は、クアラルンプールの中心部から車で三十分ほど走った、落ち着いた雰囲気の住宅街にあった。
見上げるような高さのコンドミニアムには、共有のプールやジムが完備されている。日本で言えば高級マンションのような佇まいだが、こちらでは中産階級にとって一般的な住まいなのだとリリーが教えてくれた。
「Hey, I’m home! (ただいま!)」というリリーの明るい声に導かれ、部屋に足を踏み入れる。
突然現れた、バックパックを背負った見知らぬ日本人の私を、彼女の両親と妹は驚くほど自然に、そして温かく迎え入れてくれた。
「Welcome to Malaysia! You came all this way? I heard from Lily. Make yourself at home, stay as long as you like. 」
(遠いところからよく来たね。リリーから聞いたよ、ゆっくりしていきなさい)
家族の間で交わされる会話は、マレー語と英語がリズミカルに混ざり合っている。けれど、私が疎外感を感じないように、私に向ける言葉は常に平易で優しい英語を選んでくれているのが分かった。
キッチンから漂うスパイスの香り、テレビから流れる陽気な音楽、そして絶えない笑い声。
そこには、かつての私が健一と築こうとして、結局手に入らなかった「本当の家族の温もり」が満ちていた。
ふと、千葉の実家に残してきた両親の顔が浮かぶ。
今回の旅立ちで、二人には多大なる心配と迷惑をかけてしまった。一方的な手紙で全てを済ませたけれど、この家族の優しさに触れていると、急に自分の身勝手さが申し訳なく思えてくる。
(……いつか、綺麗な絵葉書を探して出そうかな)
柄にもなく、少しだけホームシックかもしれない。そんな自分に気づき、私は自嘲気味に小さく苦笑した。
「Come on, Sumire! No time to get sentimental. Let’s go grab dinner. I’m treating you to some of my best Malaysian food! 」
(さあ、すみれ! しんみりしている暇はないわよ。夕飯を食べに行きましょう。とっておきのマレーシア料理をご馳走するわ!)
リリーに促され、私たちは夜の街へと繰り出した。
マレーシアではリリーの両親のように共働きの世帯が多く、外食文化が非常に発達しているらしい。「自炊するより外食の方が安くて美味しいのよ」と笑うリリーに連れられてやってきたのは、「ブキッ・ビンタン(Bukit Bintang) 」にある「アロー通り(Jalan Alor)」だった。
そこは、まさに「食の戦場」だった。
道の両側に無限に続くかのような屋台の列。頭上に吊るされた無数の赤い提灯。サテーを焼く煙が白く立ち込め、呼び込みの声と観光客の喧騒が熱気となって渦巻いている。
「これ、全部食べていいの?」
目を白黒させる私に、リリーは手際よく次々と料理を注文していく。
最初に運ばれてきたのは、マレーシアの国民食ナシレマ。ココナッツミルクで炊かれたご飯の甘い香りと、添えられたサンバルソースの辛味が絶妙に絡み合う。
続いて、薬膳の深い香りが鼻をくすぐるバクテー(肉骨茶)。ホロホロに煮込まれた豚肉が、歩き疲れた身体に染み渡るようだ。
香ばしく炒められたエビ入りの米麺チャークイティオに、濃厚なココナッツカレーのスープが絡むカレーラクサ。そして、甘辛いタレをつけていただく香ばしい串焼きサテー。
「How is it, Sumire? Pretty delicious, right? Malaysian food’s great, isn’t it? 」
(どう、すみれ? マレーシア料理は美味しいでしょう!)
串を片手にリリーが胸を張る。
私は、口いっぱいに広がる初めての味に、ただ何度も大きく頷いた。
スパイスの刺激、ココナッツの甘さ、ハーブの爽やかさ。複雑に混ざり合ったその味は、まさにこの多民族国家そのもののようだった。
「ええ……本当に美味しい。リリー、いろいろ、本当にありがとう。私、あなたに会えて、本当によかったわ」
熱気の中、冷えたドリンクを飲み干すと、また目頭が熱くなってきた。
九年間、私は「正しい答え」ばかりを探して生きてきた。けれど、こうして偶然出会った誰かと、屋台のプラスチックの椅子に座り、煙に巻かれながら美味しいものを食べて笑う。それだけで、人生はこんなにも肯定されるのだ。
「Oh, Sumire! You’re such a crybaby—you’re just like my mom! 」
(もう! すみれってば、すぐ泣くんだから!それじゃ、うちのママと一緒よ!)
リリーが呆れたように、けれど慈しむような目で私を指差した。
「Come on, eat up! No time for tears. Your new life is just getting started! 」
(さあ、どんどん食べて! 泣いてる暇なんてないわよ。あなたの新しい人生は、まだ始まったばかりなんだから!)
私は泣き笑いの顔で「そうね」と答え、再び箸を動かした。
隣でリリーが、私の皿に新しく焼き上がったサテーをポンと置く。
マレーシアでの初めての夜。
湿度を含んだ熱風が通りを抜けていく中、私の心に深く刻まれていた「絶望」という名の型紙は、美味しい料理の香りと彼女の笑顔によって、ゆっくりと、けれど確実に、上書きされていった。
明日のことは、まだ分からない。けれど、今夜のこのサテーの味を、私はきっと一生忘れないだろう。
夜空に伸びる高層ビルの光が、新しい旅路を祝福するように、キラキラと輝いていた。
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