第21話 クアラルンプール到着と、解き放たれる涙
午後三時半。バスはクアラルンプールの中心地にあるバスターミナルへ滑り込んだ。
扉が開くと、シンガポールよりも少し乾いた、けれど熱い大気が肌をなでる。
バスを降り、私は大きく背伸びをした。約五時間の乗車で凝り固まった身体が、パキパキと音を立てる。
「We’ve arrived! Sumire. Welcome to Kuala Lumpur! 」
(着いたわね。すみれ。ようこそ、クアラルンプールへ!)
リリーの声に促され空を見上げると、そこには抜けるような青空と、それを突き刺すようにそびえ立つペトロナス・ツインタワーの輝きがあった。活気ある喧騒、様々な人種が交差する大通り。シンガポールよりも少し雑多で、力強いエネルギーに満ちた大都市だった。
私はここまでの礼を言うために、リリーに向き直った。
「リリー、本当にありがとう。あなたがいなかったら、私は今頃まだシンガポールで行き先に迷っていたわ。……ここでお別れね。気をつけて帰って」
すると、リリーは目を丸くして、信じられないというような顔をした。
「Hey! Sumire, what are you talking about? 」
(すみれ、何を言っているのよ)
彼女は私の肩を掴むと、呆れたように笑いながら続けた。
「Since you came all this way, you’ve gotta stay at my place! What, do you have other plans or something? 」
(せっかくここまで来たんだもの、うちに泊まってちょうだい。それとも何、あなた、どこか行く予定でもあるの?)
「えっ……ないけど。でも、見ず知らずの私を、いきなり家に泊めてくれるなんて……迷惑じゃない?」
「We are friends, aren't we? 」
(あら、私たち、もう友達でしょう?)
リリーがイタズラっぽく片目を瞑る。
その瞬間、私の内側で何かが決壊した。
目の前が急に熱くなり、視界が歪んだ。
止めようと思えば思うほど、涙は溢れ出し、頬を伝って地面に落ちた。自分でも驚くほどの、しゃくり上げるような嗚咽。
「友達」。その言葉が、これほどまでに優しく、これほどまでに重く響くとは思わなかった。
日本を出てからずっと、私は「独りで戦わなければならない」と思い込んでいた。誰にも頼らず、誰にも弱音を吐かず、自分の足で立つことだけが、健一への、そして過去の自分への復讐だと思っていた。
けれど、心は限界だったのだ。
見知らぬ土地で、言葉も完璧には通じず、目的地さえ定まらない。本当は、怖くて、寂しくて、不安で、押し潰されそうだった。
リリーの言葉は、私が必死に纏っていた「強い女」という名の、サイズの合わない鎧を一瞬で脱ぎ捨てさせてしまった。
「Oh, Sumire... It's okay. You're okay now. 」
(すみれ!大丈夫よ。大丈夫)
慌てたリリーが、私をぎゅっと抱きしめてくれた。
ターミナルの雑踏の中、泣きじゃくる東洋系の女と、それをなだめる陽気なマレー系の女性。周囲の視線なんてどうでもよかった。
リリーの右手が、私の背中をゆっくりと、規則正しくさすってくれる。
その手のひらの暖かさは、健一と過ごした九年間の中で、私が最も飢えていたものだった。
「便利だから」傍に置かれるのではなく、「あなただから」ここにいていいと言われること。
涙が止まる頃、私の胸の中にあった重い石のような塊は、リリーの体温で溶かされ、どこかへ消えていた。
私は鼻をすすり、リリーの肩から顔を上げた。
「……Thank you, Lily. 本当に、ありがとう」
「Alright, let’s go! I’m gonna treat you to some amazing Malaysian home cooking. It’ll cheer you right up! 」
(さあ、行きましょう。マレーシアの最高に美味しい家庭料理を食べさせてあげるわ。元気が出るわよ!)
リリーに手を引かれ、私は歩き出した。
九年かけて築いた「人生の型紙」は、もうどこにもない。
けれど、今の私の手の中には、リリーからもらった温かい体温と、クアラルンプールの眩しい太陽がある。
真っ白な布地に、新しい線を引く準備は、ようやく整ったのかもしれない。
私はバッグパックの重みを感じながら、力強く一歩を踏み出した。
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