第2話 外聞という名の呪縛
一夜明けても、地獄は続いていた。
朝方に少し微睡んだのだろうか。重い瞼を持ち上げた瞬間、「全部悪い夢だったらいいのに」と淡い期待を抱いた。けれど、ズキズキと脈打つような酷い頭痛と、熱を持ってパンパンに腫れ上がった目元が、あまりに冷酷に現実を突きつけていた。
昨夜の健一の「一度きりの出来心」という言葉は、私の耳にこびりついて離れない。
けれど、既にスマートフォンに残されたLINEの履歴を遡った私に、その言葉が真っ赤な嘘であることは明白だった。
日付が刻印されたやり取りの断片は、出来心などという一過性の過ちではなく、彼らが長い時間をかけて、周到に、確実に、私を裏切り続けてきた事実そのものだった。
九年間信じてきた彼の声よりも、画面の中で無機質に光る文字の羅列の方が、残酷なまでに真実を物語っていた。
「一度じゃないじゃない……嘘つき……」
リビングでは、先に起きていた健一がひどくやつれた顔でソファに座り込んでいた。私の姿を見るなり、彼は縋るような視線を向けてくる。
「すみれ……。本当にごめん!…… あれは本当に一度きりの遊びなんだ。信じてくれ」
「……一旦距離を置きましょう。私がここを出るわ」
感情を押し殺して告げると、健一は弾かれたように立ち上がった。
「そんな! 一ヶ月後には結婚式なんだぞ! 今さら出ていくなんて、本気か?」
「他の女に目が行くような男が、結婚を望んでいるなんて信じられない。なんなら、その女性と結婚すればいいじゃない」
「すみれ! 俺が愛してるのは、すみれだけだ。……彼女は、その……向こうがしつこく誘ってきて、断りきれなくて」
どこまでも女のせいにするその卑怯な言葉に、胸の奥が冷え切っていく。
「出張だって嘘をついてまで会いに行くんだから、私よりも優先度は高いんじゃない? だったら、その女でも誰でも一緒でしょ。とにかく、今は顔も見たくないの」
「えっ、でも。……結婚は……するよな? 一ヶ月後なんだぞ。招待状も出したし、みんな楽しみにしてる。大丈夫だよな?」
私の傷よりも、予定通りの「結婚」が遂行されるかを気にする彼。その無神経さが、決定的な亀裂となって私を貫いた。
「……とにかく、私は家を出ます。話し合いは……あとでしましょう」
私は震える手で、ひとまず一週間分の着替えを力任せにスーツケースへと詰め込んだ。クローゼットに並ぶ健一とお揃いのハンガーも、二人で選んだベッドリネンも、今はただの「ゴミ」にしか見えない。
荷物をまとめ、逃げるように朝の街へ飛び出した。重いスーツケースを引きずり、逃げるような思いで実家へと向かった私を待っていたのは、さらなる絶望だった。
「すみれ。……健一さんから電話があったわよ」
実家のリビング。健一が先に手を回したのだろう。母が口を開いたが、その声に娘への労わりはなかった。
「健一さんも深く反省しているわ。男の人には、結婚前に少し羽目を外したくなる時があるものよ。一度きりのことじゃない」
「お母さん、何を言ってるの? 浮気だよ?」
「わかっているわ。でもね、すみれ。もう一ヶ月後なのよ。式場への支払いはどうするの? 親戚中に出した招待状は? お父さんの仕事関係の方もたくさんお呼びしているのよ」
母の言葉に、父も深く頷いた。
「そうだ。今さら破談だなんて、外聞が悪すぎる。親戚に合わせる顔がないぞ。一度くらい、寛大な心で許してやるのが、人としての度量というものじゃないのか」
目の前が暗転するような感覚に陥った。
悲しみで震える私の肩に置かれたのは、労わりの手ではなく、『世間体』という名の重石だった。
それから四日後、さらなる絶望が私を襲った。健一が両親を伴い我が家を訪問した。昼間のうちに泣きついて同情を買い、私を説得するための盾として連れてきたに違いない。その手回しの良さに、吐き気がした。
「……私は、許せません」
搾り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「あの日から、何も食べられないんです。眠れないんです。裏切られたショックで、心が死んでしまいそうなのに、どうして式のキャンセルの心配ばかりするの?」
「すみれ! あなた、わがままを言わないで!」
母が声を荒らげた。
「三十手前にもなって、結婚が破談になるなんて、どれほど惨めか分かっているの? 職場の人になんて説明するつもり? 『浮気されたからやめました』なんて、あなたが笑われるだけなのよ。ここは我慢して結婚さえすれば、そのうち本当に幸せになれるものなの」
幸せなフリ。
アパレルパタンナーとして、私は数えきれないほどの『美しいライン』を作ってきた。でも、それは適切な型紙と、上質な布地があって初めて成り立つものだ。
ボロボロに引き裂かれた布を、無理やり繋ぎ合わせて『美しいドレス』に見せかける。そんな欺瞞に、私の技術は使いたくない。私の人生も同じだ。
「……結婚、しなきゃいけないのね。お父さんもお母さんも、私にそれを望んでいるのね」
「当たり前だろう。それが大人の責任と言うものだ」
父の言葉が、トドメだった。
この人たちにとって、私の尊厳は『世間体』よりも軽いのだ。
話し合いは、私の承諾を得ないまま「一週間、頭を冷やして再考する」という形で強制的に終了した。
私は実家を飛び出し、ふらふらと街へ出た。
四月の爽やかな風が吹いている。晴れやかな表情の、新社会人らしき初々しいスーツ姿の若者がちらほら目につく。
( ああ、私にも、あんな初々しい時期があったなあ……)
四日前のウェディングドレスのフィッティング。あんなに完璧に引いたはずのドレスのラインが、脳裏をよぎる。
―― 二ミリ、浮いてる。
あの時感じた違和感は、正しかったのだ。
私の人生は、もう修復不可能なほどに歪んでしまった。
食べられない、眠れない、笑えない。
このままここにいたら、私は、私でなくなってしまう。
「……退却だ」
ふと、その言葉が口をついて出た。
負けるのではない。この泥沼のような、汚れた場所から身を引くのだ。
世間体がなんだ。外聞がなんだ。
私は、私を守るために、ここではないどこかへ退却するのだ。
パタンナーとしての勘が、私に告げていた。
今すぐ全ての線を消して、真っ白な紙に向き合わなければ、一生、自分の人生を縫い上げることはできないと。
私は震える手でスマートフォンを操作し、航空券の予約サイトを開いた。
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