第3話 パターンの引き直し
家に戻った私は、健一とその両親が帰り、ようやく静寂が戻った自室でクローゼットの前に立っていた。
そこには、健一と同棲中のマンションには入りきらなかったお気に入りの洋服や、思い出のワンピースなどが並んでいる。健一が「似合うよ」と言った淡いパステルのブラウス、彼好みの膝丈のフレアスカート。パタンナーとしてのこだわりを詰め込みつつも、その全ては『彼好みの女』というパターンに自分を押し込めるためのものだった。
「……何やってたんだろう、私」
私はクローゼットから一着のブラウスを引き抜き、その縫い目に指を這わせた。
この数年、私は自分の人生を丁寧に縫い合わせているつもりだった。けれど実際は、他人の引いた線に合わせて、無理やり布を裁断していただけではないのか。
ふと、机の隅に置かれたスケッチブックが目に入る。
そこには、仕事の合間に描き溜めていた、いつか形にしたい『私の理想のデザイン』があった。もっと大胆なカッティング、もっと自由な色彩。健一が「個性的すぎるよ」と笑った、私の本当の好み。
私はペンを握り、真っ白なページに力強く一本の線を引いた。
アパレルパタンナーの仕事は、平面の布を立体に変える魔法だ。
もし、布の裁断を間違えたら?
もし、縫い合わせる場所を誤ったら?
答えは一つ。糸を解き、もう一度型紙を引き直せばいい。
「人生だって、引き直せるはずだわ」
私はクローゼットから大きなバックパックを引っ張り出した。
健一好みの服は、一着も入れない。代わりに、自分が一番自分らしくいられるジーンズと、仕立ての良いシャツ、そしてパタンナーの命である裁縫道具と大好きな自社ブランドのオリジナル生地の端切れを詰め込んだ。
翌朝、私は会社へ向かった。
周囲からは「結婚準備で大変ね」と声をかけられる。私はただ、軽く微笑んで自分のデスクに向かった。
自信を持って仕上げた、最後のパターンを工場へ回す。そして、その足で上司の元へ向かう。
「……退職願です。一身上の都合により、今月付で退職させていただきます」
上司の驚愕の表情も、背後から波のように広がった同僚たちのひそひそ話も、今の私にはどこか遠い国の出来事のように感じられた。
「……退職、かい? あれ? 結婚しても仕事は続ける予定だったよね?」
「はい。結婚自体が、なくなりましたので」
淡々と事実を告げると、オフィスの空気が一瞬で凍りついた。
私は残っている有給休暇をすべて消化することを伝え、デスクの周りにあるわずかな私物をまとめ始めた。
結婚式の中止を報告し、これまでお世話になった方々へ丁重に詫びて回る。
本心から目を見開いて絶句し、「何かあったら連絡して」と私の体を気遣ってくれる上司や、友人とも呼べる一部の同僚たち。彼らの温かさは、今の私には少しだけ眩しすぎた。
一方で、それ以外の場所から飛んでくる視線は、ひどく冷ややかで、かつ粘り気があった。
「大変だったわねぇ」と口では言いながら、目は好奇心で爛々と輝いている噂好きの面々。見せかけの同情を装いながら、「で、どっちが悪かったの?」と泥沼の真相を暴こうとする無遠慮な関心。
興味本位の憐れみと、冷やかしの混じった『可哀想な女』というレッテル。
それこそが、私がこの場所から『退却』すべき最大の理由だった。
パタンナーとして、私は知っている。
汚れのついてしまった布地を、同じ場所で洗い続けても、繊維の奥まで染み込んだ染みはなかなか抜けない。一度、全く違う風に当てなければいけないのだ。
会社を出たその足で、私は近くの公園のベンチに深く腰を下ろした。風が頬を撫でる。
職を失い、婚約者を失い、家族という後ろ盾さえ今は頼れない。でも、心は驚くほど軽かった。
震える指で銀行のアプリを開く。認証を経て画面に表示されたのは、新卒から六年間、アパレルの戦場で一生懸命働いて貯めた、汗と涙の結晶とも呼べる三百五十万円の貯金。
画面に並ぶ静かな数字の羅列。それが、私の二十代のすべてだった。
退職金の振り込みは、事務手続きを経て来月の末になるだろう。今はまだ、そこにあるはずの金額は『未確定』でしかない。けれど、人事部で受け取った『退職金支給額』の通知画面のスクリーンショットが、私の再出発を物理的に支えていた。
これまでの貯金と、いずれ振り込まれる退職金。
決して遊んで暮らせる額ではない。けれど、節約すれば世界を旅して、自分の心を見つめ直すだけの時間は、この数字が守ってくれる。
「……これだけで、十分。どこへだって行ける」
私は一度大きく息を吐き、アプリを閉じた。
さっきまで、健一からの着信履歴が数十件、そして両親からの「話し合いはどうなった」「早く戻りなさい」という督促の通知が、休む間もなく画面を覆い尽くしていた。そのすべてを、一瞥しただけで切り捨てる。
「……すみれ」
ふいに名前を呼ばれ、振り返ると、そこには職場の先輩であり、唯一の理解者である真理子さんが立っていた。彼女は私の足元にある大きなバックパックを見て、すべてを悟ったように目を細めた。
「本当に辞めちゃうのね」
「はい。……身勝手だって、同期には笑われるかもしれませんけど」
「いいえ。誰もあなたを笑ったりしないわ」
真理子さんは私の隣に座り、そっと私の震える手を握った。
「みんな『現実逃避だ』って言うかもしれない。でもね、すみれ。ボロボロの状態で戦い続けて、自分を壊してしまうことだけが正解じゃないわ」
「……私、負けて逃げ出すみたいで、ずっと苦しかったんです」
「違うわ。それは負けじゃない。自分という一番大切な財産を守るための、『戦略的撤退』よ。次に進む方向を決めるために、今は戦線を下げるだけ。……命あっての物種、心あっての人生よ」
自分を守るための、『戦略的撤退』『心あっての人生』。
その言葉が、凍りついていた私の心にじんわりと溶け込んだ。
パタンナーだって、どうしても線が繋がらない時は、一度机から離れて空を仰ぐ。今の私に必要なのは、まさにその時間なのだ。
「これ、餞別。向こうで美味しいものでも食べなさい」
手渡されたのは、小さな封筒と、真理子さんお気に入りの革製のメジャーだった。
「またいつか、あなたが最高の服を仕立てる時に使いなさい」という無言のメッセージ。
「……ありがとうございます。行ってきます、真理子さん」
「ええ。最善の退却をなさい。あなたの人生のラインを引き直せるのは、あなただけなんだから」
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