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【片道切符で異国を旅歩く 〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜】  作者: 恋せよ恋
ニュージーランド編 懐かしい場所と自分の気持ち

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171/201

第171話 穏やかな暮らしと、届き続けるDM

 私の一日は、この旅の中で一番落ち着いていた。旅先ではあるが、ここでは確かな『暮らし』があった。


 十二年前と同じように、午前中のバスに乗ってアートセンターへ通う。大好きな手芸に没頭しながら、次々と訪れる観光客や地元の人々をのんびりと眺める日々。収入こそないものの、時にはスーザンの代わりに接客を手伝うこともあった。


 ランチタイムになれば、スーザンと一緒に温かいミルクティーとシンプルなサンドイッチをいただく。


 午後三時半になると帰り支度を始め、途中でスーパーに寄って食材を買ったり、穏やかな日差しの日には公園を少しぶらぶらしたりしてから家路につく。


 夜、アンの帰りが遅い日には、私が簡単な夕飯の支度を任されることもあった。そうして二人でワイングラスを傾け、他愛もない世間話に花を咲かせながら食事を楽しむ。


 ここには、穏やかで、どこか温かい時間が確かに流れていた。


 ――そんな平和な日々の裏で、この三週間、健一からはいまだに『一行日記』のようなDMが届き続けている。


 内容は、本当に取り止めのないことばかりだ。


『仕事中に転びそうになったから、体力作りでジムの時間を伸ばすよ』

『スーパーで、日本のカップ焼きそば買ってきた。ペヤング最高だね』

『洗濯物を畳むのって面倒だな。ハンガーにかけっぱなしにするよ』


(健一、これをいつまで続ける気かしら? よく送信を忘れないものね……妙なところで優秀さを発揮しているわね)


 呆れ半分で苦笑まじりに画面を見つめながらも、私自身、ランチ時にInstagramのDMを確認する癖がつき始めていた。


 ◇


 アートセンターの店内には、いつも爽やかな紅茶の香りと柔らかい光が満ちていた。


 今取り組んでいるのは、ニュージーランド特有の植物や鳥をモチーフにした小さな刺繍作品だ。温かみのある羊毛の糸を針に通し、ひとつひとつ丁寧に布へと刺していく。無心で手を動かしていると、胸の奥に溜まっていた雑音がすっと消えていくのだ。


“Sumire, I love your use of color. You’ve captured the feel of New Zealand’s brief spring so beautifully.”

『すみれ、その色使いすごく素敵よ。ニュージーランドの短い春の空気感がうまく出てるわ』


 眼鏡をずらしながら手元を覗き込んできたスーザンが、楽しそうに目を細める。


「本当ですか? こっちの羊毛は少し風合いが強くて、最初は糸の引き加減に戸惑っていたんです」



“You’re getting the hang of it, I see. All your pieces have this lovely, Eastern-inspired color palette. Looking at them always makes me feel at peace.”

『ふふ、手が慣れてきた証拠ね。あなたの作品はどれも、東洋を思わせる素敵な色使いで、見ていると優しい気持ちになれるわ』


 誰かの評価や商品化を気にせず、ただ好きだから作る。そんな当たり前で贅沢なものづくりの喜びを、この場所は思い出させてくれた。


 アートセンターからの帰りにスーパーで買った新鮮なラム肉とハーブを使い、簡単なグリルとサラダを用意してアンの帰りを待つ。



“I’m home, Sumire. That smells amazing! I’m exhausted after today, so this is just what I needed.”

『ただいま、すみれ。いい匂い! 今日もクタクタだったから助かるわ』


 夜の八時過ぎ、帰宅したアンとテーブルを囲み、赤ワインを飲みながら夕食を楽しむ。


“How’s the handicrafts class at the art center? Are you enjoying it?”

『アートセンターでの手芸はどう? 楽しめてる?』


「ええ、すごく。スーザンにも褒めてもらえて嬉しかったです。……ここでの暮らしは、東京にいた頃には想像もできなかったくらい穏やかで」


 アンは微笑みながらグラスを傾け、静かに私を見つめた。



“Sumire, you look so much more relaxed than you did when you first arrived here. I don’t think healing from the wounds of the past takes some grand miracle. Sometimes, it’s just about letting these quiet, ordinary moments add up.”

『すみれ、あなたの顔、ここに来た日よりずっと柔らかくなったわよ。過去の傷を癒やすのに必要なのは、大げさな奇跡じゃなくて、こういう何でもない穏やかな時間の積み重ねなのよね』


 アンの言葉が、じんわりと心に染み渡っていく。夜の風が窓を優しく揺らす中、温かい食事と静かな会話が、疲れた心を癒してくれる。



「アンは……再婚を考えたことはあったんですか?」


 グラスを弄びながらふと口にした問いかけに、アンは一瞬だけ驚いたように目を丸くし、それから懐かしむような穏やかな笑みを浮かべた。



“Hmm… I guess I never really thought about it that way during the first few years after my divorce. I was so caught up in raising my child, and there was a time when I shut myself off emotionally, too.”

『そうね……離婚した最初の数年は、そんなこと考えもしなかったわ。子育てに必死だったし、心を閉ざしていた時期もあったしね』


 アンはワイングラスの脚を指先で優しく撫でながら、遠い目をして静かに言葉を紡ぐ。



“But then, I guess it was about five years later. A really kind, wonderful man started pursuing me. For a moment, I wondered if maybe it wouldn’t be so bad to start a new chapter in my life.”

『でもね、五年ほど経った頃かしら。すごく親切で素敵な男性にアプローチされたことがあったの。一瞬だけ、新しい人生を歩むのも悪くないのかなって揺れたわ』


「そうだったんですね……」



“Yes. But in the end, we never actually started dating. It wasn’t that I didn’t like him. It’s just… without even realizing it, I’d been weighing the life I had with my son against the possibility of building a new life with someone else.”

『ええ。でも結局、お付き合いには至らなかった。彼が嫌だったわけじゃないの。ただ……私が「息子との生活を守ること」と「新しい誰かと歩むこと」を、無意識に天秤にかけてしまっていたのね』


 アンの言葉は、まるで今の私の心をそっと見透かしているかのように優しく響いた。



“Holding on to the past while opening yourself up to new possibilities takes a lot out of you. That’s why I never remarried, but… I don’t regret the path I chose. What matters isn’t whether you choose to be with someone or not. It’s whether you can make that choice with peace of mind, knowing it’s truly what you want.”

『過去を大切に抱きしめたまま、新しい風を受け入れるのって、すごく体力がいることなのよ。だから再婚はしなかったけれど……選択しなかったことを後悔はしていないわ。大切なのは「誰かと付き合うか・付き合わないか」じゃなくて、自分自身が納得してその道を選べているかどうかだから』


「納得して……」



“Exactly. So, Sumire, there’s absolutely no need to rush.”

『そう。だからすみれも、焦る必要なんて少しもないのよ』


 アンはいたずらっぽくウィンクをして、自分のグラスを私のグラスにカチンと軽く打ちつけた。澄んだグラスの音が、静かなリビングに心地よく響いた。


 そして、この夜、私の中に新たな目標が生まれた。


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