第170話 過去への誠実、未来への罪悪感
絶品イタリアン料理を二人でつつきながら、グラスを傾ける。食事が一段落した頃、マイクさんがふと思い出したように口を開いた。
“By the way, I talked to Ko on the phone the day before yesterday. He’s at his place in Tokyo right now. He sounded as energetic as ever.”
『そういえば、一昨日日本にいるコウと電話で話したんだ。あいつは今、東京の自宅にいるよ。相変わらず元気そうだった』
「そうだったんですね。お話しされてたんですか」
“Yeah. When I told him I’d happened to run into you, he was really surprised.”
『ああ、すみれに偶然会ったって報告したら、あいつ、すごくびっくりしてたよ』
マイクさんはクスッと笑うと、ワイングラスをテーブルに置き、少し真面目な眼差しをこちらに向けた。
“…Look, this is probably none of my business, but being a lawyer, I have a habit of wanting to get a clear picture of the situation right in front of me. How do you feel about Ko? I believe he confessed to you because he genuinely has feelings for you.”
『……ねえ、大きなお世話だろうけどさ。弁護士という職業柄、どうしても目の前の状況をクリアにしたがる癖があってね。すみれは、コウのことどう思ってるの? あいつが本気ですみれのことが好きだから告白したんだと、俺は思うんだけど』
ストレートな問いかけに、私は手にしていたグラスをそっと置いた。
マイクさんの瞳に探るような嫌な気配はなく、ただ純粋に友人として、そして弁護士らしい中立の視点から心配してくれているのだと伝わってきた。
私は少し視線を落とし、胸の奥で温めていた言葉をひとつひとつ丁寧に紡ぎ出した。
「……正直、私はまだ誰ともお付き合いしようとは思えません。婚約を破棄して、まだ三ヶ月くらいなんです。出会いは、時間ではないのかもしれません。でも……それでも、私にはたった三ヶ月で、結婚しようとまで思っていた相手を忘れることはできません。それは、過去の自分を軽んじるように感じてしまうから……だから、コウさんとお付き合いすることを受け入れてはいけない気がするんです」
元婚約者への未練というよりも、真剣に向き合っていた自分の過去や決断を無かったことにはしたくないという、自分自身への誠実さ。
言い終えてマイクさんの顔を見つめ返すと、彼はグラスのふちを指でなぞりながら、深く頷いた。
“Hmm. How should I put it… You’re devoted, and pretty conservative when it comes to love. You take your feelings seriously, too. You’re not the kind of person who can just put the past behind you and move on. But the interesting thing about you is that, despite being so conservative, you can be surprisingly bold when it comes to your actions. I mean, you were bold enough to leave Japan and travel abroad on your own, yet you’re incredibly cautious when it comes to your own heart… Maybe that contradiction is what draws Ko to you.”
『ふうん。すみれは、なんて言うか……一途で、恋愛に対して保守的。自分の感情を簡単には割り切れない誠実な女性なのかな。でも、すみれの面白いところは、保守的なのに行動は大胆なところだね。だって、一人旅で大胆に日本を飛び出せるのに、自分の心の中ではものすごく慎重……多分だけど、すみれのそのアンバランスさがコウを惹きつけているのかもしれないね』
マイクさんがワインをゆっくりと飲み干した。
“You still good for another drink?”
『どう? まだ、飲める?』
「私は、これで十分です」。私はグラスに残った赤ワインに視線を向けた。
マイクさんはウェイターを呼ぶと、追加で白のグラスワインを一杯だけオーダーした。
“So, you’re trying to stay true to the fact that you loved your fiancé, that you were serious enough about him to get engaged, and that those nine years were real. That’s why you feel like you shouldn’t just move on to someone else so easily, right?”
『すみれは、フィアンセを愛していた過去があって、婚約まで進んだ自分、そしてその九年間は本気だったっていう、一本の筋を通そうとしてるんだね。だから簡単に次へ行ってはいけない、と』
マイクさんは静かに頷き、腕を組んでこちらを見つめた。
“So, it’s not so much that you’re rejecting your feelings for Ko… Maybe it’s more like you’re carrying a kind of guilt—the feeling that choosing Ko would somehow erase those nine years you spent with your fiancé. Am I right?”
『つまり、コウへの気持ちを拒絶しているというより……『コウを選ぶことで、フィアンセとの九年間をなかったことにする』みたいな、罪悪感に近いものを抱えているんじゃないかい?』
図星だった。
胸の奥にずっと引っかかっていたモヤモヤを、見事に言語化されたような衝撃に、私は息をのんだ。
“……Sumire, you feel like you shouldn’t fall for anyone else until you’ve forgotten your fiancé, don’t you? But the truth is, the fact that you loved your fiancé and the possibility that you might come to love Ko are two completely separate things.”
『……すみれは、フィアンセを忘れないうちは、誰かを好きになってはいけないと思っているよね? でも本当は、「フィアンセを愛していたこと」と「これからコウを愛すること」は、全く別の話なんだよ』
マイクさんは優しく微笑みながら、ワイングラスを軽く指で弾いた。
コツンという軽い音が鳴る。
“I don’t think cherishing the love you had in the past means you have to reject the possibility of love in the future. And I don’t think you need to forget your fiancé, either.”
『過去の恋愛を大切にすることと、これからの恋愛を拒絶することは同義ではないと、僕は思うよ。すみれがフィアンセを忘れる必要なんて、僕はないと思う』
「忘れる必要が……ない、ですか……?」
“Exactly. It would be strange if you could forget someone you loved for nine years in just three months, wouldn’t it? Those nine years mattered to you. Maybe they’re part of what made you the person you are today. So you don’t have to think of falling for Ko as betraying your past. …Still, I do understand how you feel. Ko’s got his work cut out for him, huh? Haha!”
『そうさ。九年間好きだった人を、たった三ヶ月で忘れられるほうがおかしいだろう? その九年間が大切だったからこそ、今のすみれがいるんじゃないのかな。だから、コウを好きになることを、過去への裏切りみたいに考えなくていいと思うんだ。……でも、まあ、すみれの気持ちもわかるからなあ。コウは大変だね、ははは!』
マイクさんの温かい言葉が、かたくなになっていた心へゆっくりと浸透していく。
過去の自分を否定しなくていいと言われた気がして、目頭が熱くなった。
最後にお茶目に笑い飛ばしてみせたマイクさんに、私もつられてふっと肩の力が抜け、小さく微笑みを返していた。
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




