第166話 ◇ 家族の眼差しと、ひとつの決意
夕方五時過ぎ、控えめなノックの音とともにナミさんが顔を出した。
「コウ坊ちゃん、奥様がお帰りになりましたよ」
「ありがとう。すぐ行くよ」
俺はノートブックを閉じ、リビングに向かって部屋を出た。
広いリビングのソファに腰を下ろし、テーブルに置いてあった建築やデザインの情報誌を見るともなく眺める。
「コウ、お帰りなさい。……あら? 何かあった?」
声のした方を向くと、母親の狭山桜がリビングに現れたところだった。
「おう。なに?」
「あなた、雰囲気が変わったわね。……なんだか、普通の男の子みたいだわ」
「は?……んだよ、それ」
思わぬ指摘に妙な落ち着かなさを感じ、俺は素っ気なく情報誌に目を落とした。
インドはどうだったのか、ちゃんと食事はしているのか、仕事は忙しいのか――母からの矢継ぎ早な質問を適当に受け流していると、間もなくして姉夫婦が、そして少し遅れて父親の狭山類も帰宅した。
軽く挨拶だけを交わし、各自が着替えのために一度部屋へと向かう。
それから三十分ほどして、重厚なダイニングテーブルに家族五人が揃った。
「お帰り、コウ。クリスマス以来だな。どうだ、インドは?」
親父が勝手に「乾杯!」と声をあげ、冷えたビールを美味そうに喉へと流し込む。
「まあ、暑いけど暮らしやすいよ。……俺の自宅周辺に限った話だけどさ」
「あら。でも、Instagramを見たわよ。タージ・マハルに行っていたじゃない? しかも、誰だったかしら……YouTuberの若い女の子と騒ぎになっていたんじゃない? TGCにも出ている子らしいじゃないの。本当は付き合っているの?」
意外にもミーハーな一面を持つ姉の栞が、ニヤニヤと興味本位で聞いてくる。
「ああ、あれな。声明を出しただろう。あれが全てさ。彼女は同業者の後輩の一人で、ナナちゃんっていうんだけど、モデルとかメディア露出が多いんだよ。だから余計に騒動になったんだろうな」
俺は一連の騒動の顛末をかいつまんで説明した。
「へえ。いかにも現代のSNS社会らしいゴシップだったんだね」
姉貴の旦那さんである悟さんが、真面目な表情で自身の見解を口にする。
「うん。そうだな。リツイートで拡散する行為で責任の所在があやふやになるからな」
「ええ。最近の法務事案でも増えてきているわね。今日もね……」
そこからは、弁護士四人による職場の延長のような法令や事例の話が始まった。
俺が静かに耳を傾けながら、ナミさんが作ってくれた好物の五目ご飯を食べていると、急に姉貴が大きな声をあげた。
「ちょっと、コウ! 彼女できたの!? どんな子よ! 写真見せなさい!」
姉貴の鋭い視線は、俺の左手薬指に嵌められたトルコ石の指輪に注がれていた。
(しまった――)
内心で焦りつつも、俺は努めて平然とした顔を作った。
「別に……彼女じゃないし」
「「あら!!」」
姉貴と母さんの声が綺麗にハモってダイニングに響き渡った。
「で、どんなお嬢さんなんだ?」
それまで黙っていた親父まで、興味津々で乗っかってくる。
「海外にいる女性なのかな?」
悟さんまで穏やかな笑顔で踏み込んでくる始末だ。
「ねえ、まさか弁護士なのに、『プライバシー』って言葉を知らないの?」
「ふふふ。どうやら本気っぽいじゃない」
姉貴が逃がさまいとグイグイ攻めてくる。
「何だよ。どうでもいいだろう」
「気になるのよ。あなたが選ぶ子はいい子に決まっているだろうけど、なかなか会えないだけに紹介はして欲しいじゃない」
俺は観念したように、大きく息を吐いてから返事をする。
「……昔さ。高三の頃だけど。朝、腹痛で駅からタクシーで帰宅した時のこと覚えてる? 結局、病院に行って急性胃腸炎って診断されたんだけどさ」
「ああ。そんなこともあったわね。確か、親切な人に助けてもらったって言っていなかった?」
お袋が思い出したように声をあげる。
「そう、その人。その時に助けてくれた女性にインドで会ったんだ……向こうは覚えていなかったけど」
「まあ、そんな映画みたいな偶然があるのね。でも、珍しい女性ね。コウって忘れられるタイプの男じゃないでしょうに。あ! わかった! その人が彼女なのね!?」
「彼女ではない。……まだね」
「え〜。片想いなの? コウが? コウが、片想いしてるの?」
「悪いかよ。俺だって、したくてしてるわけじゃないよ」
「ふうん。きっと、素敵な女性なのね」
「ああ。素敵な女性だよ」
両親と姉夫婦の生温かい眼差しに、俺は何とも言えない気恥ずかしさを感じた。
咳払いをひとつ挟み、真剣な表情で四人を見回す。
「あのさ。これ、消そうと思うんだ」
俺はTシャツの袖から覗いている、右腕のタトゥーを見つめながら言った。
「ボストンに留学していた時に入れたんだけど……今は、自分に合っていないように感じるんだ」
「そうか」
親父が静かに頷く。
「うん。あの時は、留学先での待遇にも納得できないこともあったし、『世界でも負けないぞ』っていう自分への鼓舞と決意で彫ったんだ。アメリカ先住民の幾何学模様と一緒に、親父とお袋のイラストと、ハッピーの顔を彫ったんだけどさ」
俺は右腕に刻まれた、今は亡き愛犬のパグ『ハッピー』のイラストにそっと触れながら言葉を続けた。
「今の俺にはない方がいいと感じるんだ。だから、消すよ。当時は、親父にめちゃくちゃ怒られたけどね」
「当たり前だ。お前と大浴場に行けなくなってしまったんだぞ。背中を流してもらえないじゃないか」
あの時、烈火の如く怒った親父の言葉は、今でも鮮明に覚えている。
『まだ、何者でもない青い小僧のくせに、自分の将来を狭めてどうするんだ! この馬鹿者が! タトゥーを入れるなら、自分に責任を持てるようになってからにしろ!』
あんなに激昂した親父を見たのは、後にも先にもあの一回きりだ。
「ふふ、お父さんったら、あの時は本当にショックを受けていたものね。でもコウ、自分でそう思えたのなら、それが一番いい選択よ」
お袋が優しく微笑み、家族全員が温かく頷いてくれた。
すみれさんと出逢い、恋をして、誰かを守りたいと心から願ったことで、俺の中で何かが確実に変わり始めていた。過去の意地や誇示するための強さではなく、これからは裸の自分で彼女と向き合いたい――右腕のタトゥーを見つめながら、俺は静かにその決意を固めていたのだった。
「それは、彼女の影響か?」
親父がビールグラスを置き、真剣な眼差しで俺を見つめてきた。
「いや。彼女は、タトゥーを嫌っているわけじゃないと思うんだ」
俺は少し間を置いてから、自分の中で導き出した答えを言葉にした。
「ただ……いつか、自分が父親になった時、子供には、タトゥーを入れることを当たり前だと思ってほしくないなって思うようになったんだ。俺、気合い入れて腕一本にがっつり彫っちゃったからさ」
お袋が黙って深く頷く。
「当時は、親父に怒鳴られても『タトゥーそのものを否定されている』って反発したけどさ。今は、親父が言おうとしていたことがよく分かるよ。今の俺なら、右腕一本がっつりなんて彫らない」
「そうか……」
親父は一瞬だけ目元を緩め、静かに頷いた。
「お前がそう自分で気づけたのなら、私からもう言うことは何もない。タトゥーそのものを嫌っていたわけではない。だが、お前がその選択によって将来背負うかもしれない不利益や、周囲からの偏見から守りたかったんだ。……そして今のお前は、自分のためだけではなく、大切なものを守るために自分の生き方を考えられるようになった。それなら、もう立派な大人だ」
「親父……」
「まあ、消すとなると痛みもあるだろうし、時間と費用もかかるだろうがな。根気よく通いなさい」
厳格だった親父の温かい言葉に、胸の奥が熱くなる。
「ふふ、お父さんったら。あの時は『大浴場に行けない』って泣き言を言っていたくせに」
お袋がくすりと笑うと、姉貴も「そうそう! 悟さんとお父さんでコウを連れて温泉に行けるようになるじゃない」と悪戯っぽく微笑んだ。
「でも、いい選択だと思うよ、コウ君。自分の将来や、これからの人生のことをちゃんと考えて決めたことなんだから」
悟さんも穏やかな声でそう言って、俺の背中を押してくれた。
左手の指輪と、右腕のタトゥー。
かつては『世界で戦うための鎧』として刻んだタトゥーを消し、これからは一人の男として、大切な人をまっすぐに愛していく。
家族の温かな眼差しに包まれながら、俺は自分の心の中に宿った新しい覚悟を、静かに噛み締めていたのだった。
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