第165話 ◇ 久しぶりの再会と気のおけないランチ
シャツの袖を捲り上げながら片山がターリーに載ったカレーを一瞥してニヤリと笑う。
「お前に気を使って本場のカレー屋にしたんだが、さすがに帰国翌日は和食が良かったか?」
「……嘘つけ。お前がカレーが食いたかったんだろ。まあ、いいけどな」
呆れ顔で返すと、片山は「ハハッ」と声を上げて笑い、手際よくナンをちぎってダルカレーに浸した。
「で、どうだったんだよムンバイは? 狙ってた動画は撮れたのか?」
「ああ。ムンバイの暮らしの風景も、バラナシのガートも、最高の光で撮れてた。次の個展のメインは間違いなくこの写真群になる」
「そりゃ楽しみだ。……で?」
片山は満足そうに頷いた後、スプーンを置いて探るような視線をこちらに向けてきた。
「なにが『で?』だよ」
「いやさ。お前、写真の話をしてる時は相変わらずの顔なんだが、さっきから指輪を触ったり、何か言いたげに遠くを見たり……なんかいつもと雰囲気が違うぞ。そうだな、まるで『恋する中坊』ってとこかな、コウ……俺が帰ってから何かあったか?」
片山の観察眼の鋭さに、俺は図星を突かれて焦った。
長年の付き合いとはいえ、勘が良すぎるのも困りものだ。
「……何もないよ」
「嘘つけ。お前がそんなわかりやすく動揺してる時点で大アリだろ。――すみれさん?」
ズバリと言い当てられ、俺は危うく口の中のカレーを吹き出しかけた。
無言で目を逸らす俺を見て、片山は「うわ、マジかよ!」と身を乗り出す。
「どうだった? 結局、二人っきりで三週間過ごしてたんだろ。モテモテのコウくんのことだから、ぐいぐい攻めたんだよな?」
「……うっ」
「お前、マジか!? 二人っきりで暮らしてたんだぞ。告白したんだろう!? 何で進展がないんだよ」
「仕方ないだろ……嫌われるのが怖かったんだよ」
「はあ……。すみれさん、すごいな。お前の口からそんな弱気な言葉が出るなんて、太陽が西から昇るレベルだぞ」
面白がる片山を前に、俺は思わずため息を漏らした。
左手薬指のトルコブルーの指輪にそっと触れる。
自分の不甲斐なさや、ペアリングだと伝えられなかったこと、空港での抱擁の温もり……胸の中に渦巻く想いを、誰かに話したいような、大切に仕舞っておきたいような、複雑な心地だった。
「……で、結局のところ、すみれさんとはどうなったんだ? 今でも連絡取ってんのか?」
「いや……今は彼女、ニュージーランドにいてさ。それに、俺……ちゃんと振られたのかどうかもよく分かってないんだ」
「は? ニュージーランド? 振られたか分からない?」
片山は呆れ半分、興味津々といった様子で目を丸くした。
「よし、詳しく聞かせろ。今日は午後の打ち合わせまで時間あるからな」
スパイスの香りが漂う店内で、俺は苦笑いを浮かべながら、インドでのすみれさんとの奇跡的な再会と、未だに整理のつかない自分の恋心について、ぽつりぽつりと打ち明け始めたのだった。
◇
片山とのランチを終えた俺は、タクシーを拾って千代田区番町にある実家へと向かった。
大学生で一人暮らしを始めるまでは、ここで暮らしていた。高校時代、体調を崩した日にすみれさんに声をかけてもらい、タクシーで帰宅したのも、この番町の家だった。
重厚な門の前でインターホンを押す。
「ただいま。コウです」
そう告げると、カチャリと重厚なロックが解除される音が響いた。
敷地内に入り、玄関を開けて「ただいま」と声をかける。
すると、奥からパタパタという懐かしい足音が近づいてきて、お手伝いのナミさんが顔を出した。
「まあまあ! コウ坊ちゃん! お帰りなさいませ。また一段とカッコよくなられて! お元気でしたか?」
子供の頃からお世話になっているナミさんは、いつもと変わらない人懐こい笑顔で迎えてくれた。
「うん、変わりないよ。ナミさんも元気そうで安心したよ」
「ありがとうございます。コウ坊ちゃんのお嫁さんを見るまでは、元気で働き続けないと!」
「ははは、それは責任重大だ。姉貴が結婚する時も同じこと言ってなかった?」
「いいんですよ。ご結婚されたら、次はお子様のお世話がしたくなるものなんです。欲深い生き物なんでございますよ」
「そうか。じゃあ、まだまだしばらくは元気でいてもらわないと困るね。父さんと母さんには連絡しておいたんだけど、姉さんと悟さんも仕事?」
「はい。奥様から、今晩の夕食は五人でと伺っております。みなさん、コウ坊ちゃんのお帰りを心待ちにしていらっしゃいますよ」
「そう。じゃあ、俺はそれまで部屋で仕事をしてるよ。誰か帰ってきたら呼んでくれる?」
「はい。それでは、軽食をお持ちいたしますね。お飲み物はコーヒーでよろしいでしょうか?」
「うん。ありがとう」
俺は、自分の部屋へと向かった。
久しぶりの自室。窓辺に立ち、綺麗に手入れされた中庭の緑をぼんやりと眺めていると、控えめなノックの音が響いた。
ナミさんが淹れてくれたコーヒーと一緒に、子供の頃から大好きだった手作りのフルーツサンドを持ってきてくれた。ふわふわのパンに生クリームと彩り豊かなフルーツが挟まれた、懐かしい味だ。
「ありがとう、ナミさん」
お礼を言ってコーヒーを一口啜り、家族が揃うまでの間に編集作業を進めようとノートPCを開いた。けれど、画面上のタイムラインを見つめていても、どうにも集中できない。
スマートフォンを開き、Instagramのすみれさんのアカウントをタップしていた。
彼女は防犯や安全対策のため、現在地が特定されないよう常に二週間ほどタイムラグを置いて写真を投稿している。ナナちゃんのアドバイスを律儀に守っているようで、真面目な彼女らしい堅実さだと思う。
だから昨日更新された最新の画像は――片山が帰国した後に、ムンバイのカフェで二人で過ごした日の写真だった。
シックなソファ席にちょこんと座っているのは、可愛らしいテディベア。
(この子も、すみれさんの手作りなんだろうな……可愛いな)
ふっと目を細めた瞬間、写真の下に添えられた日本語のキャプションが視界に入り、俺の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
『旅先で出逢えた、かけがえのない宝物。あたたかな想い出と一緒なら、どこまでも歩いていけそうです。素敵な時間をありがとう。あなたの優しさに感謝です』
「……っ」
息が詰まった。
空港で、指輪を見た時の彼女の驚いた表情や、別れ際に抱きしめた時の温もりが一気に蘇ってくる。
『素敵な時間をありがとう』
直接言葉にはしなかったけれど、あのムンバイのコンドミニアムで一緒に過ごした時間は、彼女にとっても間違いなく『素敵な時間』だったのだ。
そう確信できただけで、胸の奥から甘く切ない感情が溢れ出し、俺は頬が熱くなるのを抑えられなかった。
(すみれさん……ズルいよ、そんなの)
自分の左手薬指に嵌めたトルコブルーの指輪を強く握りしめながら、俺は何度もそのキャプションを読み返していたのだった。
やっぱり、すみれさんの顔が見たい。
けれど、彼女のInstagramには観光地や食事がメインで、彼女自身の姿は一枚も投稿されていない。
我慢できなくなった俺は、ノートPCでクラウドストレージを開いた。
旅先で撮り溜めた膨大な撮影データの中から、すみれさんの写真をまとめて保存してあるプライベートフォルダを開く。
画面をスクロールすると、インドの旅の途中で俺のカメラに向かって微笑むすみれさんの姿が現れた。
ピンクの砂岩が美しい風の宮殿の前で、照れくさそうに佇む姿。
太陽に照らされたタージ・マハルを背景に、愛おしそうに瞳を輝かせる横顔。
アグラ城の回廊で不意に向けられたレンズに驚き、少しおどけて見せた表情。
そして、バラナシのガートで夕日を見つめていた、どこか神秘的な佇まい――。
写真の中の彼女は、どれも眩しいくらいの笑顔で旅を楽しんでいた。
(……可愛いな、本当に)
画面に映る彼女の頬を、そっと指先で撫でる。
(俺、気持ち悪いヤツになってないよな。……これも盗撮になるのか? いや、違うはずだ)
彼女と離れて、まだ、たったの二日。
それなのに、胸の奥が焼き切れるほど恋しくて、会いたくてたまらない。
「はあ……俺、大丈夫かな」
自室の天井を見上げ、静かな部屋にひとつ大きなため息を落とした。
これから始まる彼女のいない日常に、自分は耐えられるのだろうか――そんな情けない不安に囚われながら、俺はもう一度、画面の中の彼女の笑顔を見つめ直すのだった。
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