第164話 ◇ 別れの余韻と、左手の指輪
飛行機の窓の向こうに広がる雲海をぼんやりと見つめながら、俺は一人、ビジネスクラスのシートに深く身体を沈めていた。
ANAのNH830便、ムンバイを十九時半に立ち、成田到着は午前七時五十分の予定だ。約九時間のフライトで、時差は日本の方が三時間半早い。つまりは、俺の体内時計では夜中に到着することになる。
俺は一年間有効なe-Tourist Visaを取得している。ビザの有効期間内なら何度でもインドへ入国できるが、一年間の滞在日数には百八十日の上限がある。
今回は、一ヶ月だけ日本に滞在して、八月の初旬には、インドの酷暑を撮影するためにムンバイに戻る予定でいる。次回も一ヶ月ほど動画の素材を撮影したら、日本に戻るつもりだ。
目を閉じると、今でも空港ですみれさんを強く抱きしめた瞬間の、あの柔らかい感触と甘い香りが蘇ってくる。けれど、時間の経過とともにその感覚が少しずつ薄れていくのが、たまらなく寂しかった。
ふと、自分の左手薬指に嵌めたトルコブルーの指輪を見つめる。
すみれさんと出かけた宝飾品市場『Zaveri Bazaar サヴェリ・バザール』で、彼女が気に入った様子で試着していた指輪を購入した。そして、同じデザインのものを、自分の分としてもう一つ購入していた。
彼女は今、あの指輪をつけてくれているだろうか。
(……『ペアリングなんだ』とは、ついに言えなかったな)
渡すのが精一杯で、自分の想いの全てをもう一度言葉にする勇気が出なかった。
トートバッグのファスナーを開け、中から小さなテディベアを取り出す。すみれさんが俺に贈ってくれた、世界にひとつだけのハンドメイドのテディベアだ。
黒いタンクトップにデニムのショートパンツ、そして左耳には小さなピアス――まさにインドでの俺の定番スタイルそのものが完璧に再現されている可愛いくまのぬいぐるみだ。
彼女が俺の特徴を観察し、このテディベアを作っている間だけでも俺のことを想いながら一針一針縫ってくれたのだと思うと、むず痒いような、愛おしいような甘酸っぱい感情が胸いっぱいに込み上げてきた。
(……告白して、はっきりと断られたわけじゃない。……でも、あれは断られたのか?)
思いを伝えた時の彼女の表情や間を思い返すたび、胸の奥がキュッと締めつけられるように苦しくなる。
(はぁ……俺、中坊かよ)
アラサーのいい大人が、初恋に浮かれる中学生みたいに一喜一憂している。そんな自分が可笑しくもあり、情けなくもあった。
やがて機体は着陸態勢に入り、成田空港へと降り立った。
機内から一歩外へ踏み出すと、空港内だというのに『日本』の雰囲気が漂う。
いつものように標識に従って歩き、入国審査場へと向かう廊下を進む。
(帰ってきたんだな……ふう)
預けていたスーツケースを受け取り、スムーズに税関を抜けて到着ロビーへと出た。
途端に、周囲の会話が意識せずとも自然と耳に飛び込んでくる。ほとんどが日本語だ。小さな囁き声やアナウンスの意味がダイレクトに理解できる感覚に、改めて『帰国したんだ』という実感がじんわりと湧いてくる。
成田エクスプレスに乗り込み、自宅マンションのある品川へと向かう。
俺が日本を離れている間、月に一度、おふくろが部屋の風通しと様子の確認のために訪れてくれていた。
車窓からの風景を眺めながら、おふくろに無事到着した旨のメッセージを送る。
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『今、着いたよ』
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送信してすぐに返信が入った。
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『おかえりなさい。実家に顔を出しなさい。夕飯を一緒に食べましょう』
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相変わらず仕事が早い。短い文面を見つめ、口元を緩めながら返信を打つ。
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『わかった。後で顔を出すよ』
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メッセージを送って、車窓の景色に目を移した。
品川駅からタクシーに乗り、十分ほどでマンションに到着した。十五階建てのモダンなマンション。その最上階にあるのが俺の部屋だ。
エントランスの認証機にICキーをかざすと、静かな電子音とともに自動ドアが滑らかに開く。
専用エレベーターで十五階へ上がり、自室の前で顔認証とスマートフォンのアプリでスマートロックを解除した。
ガチャリ、とロックが外れる音。
約三ヶ月ぶりの我が家だ。
室内へ一歩足を踏み入れると、ひんやりとした空気が出迎えてくれた。
自宅とは言っても、ここは俺にとって半ば『映像機材置き場』であり『作業部屋』のような場所だ。パソコンと三台のモニター画面、撮影機材、最低限の着替えが整然と並んでいるだけで、生活感というものが恐ろしいほど薄い。
スーツケースを壁際に置き、静まり返ったリビングを見渡す。
(すみれさんは香港に着いて、もう友達と会った頃だな……)
俺はクローゼットから着替えを取り出して、シャワールームへと向かった。
今日はもう何もする気になれなかった。
◇
ふと目が覚め、枕元のスマートフォンに目をやると、画面には『午前九時三十分』と表示されていた。
(は? 朝? ……マジかよ。どんだけ寝たんだよ俺。ムンバイ時間なら、朝の六時か……。めちゃくちゃ寝たな)
昨日は品川のマンションに帰り着いた後、強烈な旅の疲れと時差ぼけが一気に押し寄せてきた。実家へ向かうつもりだったものの体がまったく動かず、母に『ごめん、寝たいから明日行く』と連絡を入れて、午後三時頃にベッドに倒れ込んだのだ。
そのまま一度も起きることなく、夕飯も摂らずに十八時間以上も眠り続けていたことになる。
重い体を起こしてベッドの端に腰掛け、伸びをして天井を見上げる。
「はあ……夢でもいいから会えないのかな。……会いたいな」
静かな部屋にぽつりと落ちた自分の呟きに、ハッと正気に戻り、自分で自分にギョッとした。
「なんなんだよ、もう……マジで」
アラサーとはいえ、朝起きて一番に呟く言葉じゃない。
頭をガシガシと掻きむしりながら、一人で赤面してしまう。
どれだけ彼女の存在が自分の中で大きくなっているのかを思い知らされて、降参するしかなかった。
さすがに腹が減った。
まずはシャワーを浴びて汗を流し、さっぱりしたところで着替える。
長期間留守にしていた冷蔵庫には当然食べ物などない。面倒だが、マンションの向かいにあるコンビニまで朝食を買いに出かけることにした。
ペットボトルのお茶と缶コーヒー、ヨーグルトに菓子パン、それからおにぎりとサラダをカゴに入れて会計を済ませ、部屋へと戻る。
静まり返ったリビングのソファに腰掛け、ローテーブルの上に買い込んできた朝食を並べた。
ペットボトルのお茶を開け、おにぎりのフィルムを剥がす。サラダを食べながら、スマホを開き、溜まっていた会社のメールとメッセージの通知を順番に確認していく。
「あ……」
片山から、昨夜のうちにメッセージが残されていた。
『コウ、お帰り。落ち着いたら飯食おうぜ』
飾らない短い文面を見つめ、俺はコーヒーを口に含みながら、片山への返信を打ち始めたのだった。
◇
今日の夕飯は実家へ行く予定があるため、片山とはランチを食べようか。
(まあ、当日いきなりの誘いだし、ビジネスランチの先約でも入っていれば無理だな)
そう思いつつ、『今日の昼、一緒にメシ食えるか?』とメッセージを送ってみる。
すると、数分もしないうちに返信が届いた。
『OK。いつものカレー屋でいいか? 混んでるだろうから一時で予約しとく。都合悪かったら連絡くれ』
相変わらず無駄のない、テンポの早い男だ。スマホの画面を見つめながら、俺は思わず苦笑いを浮かべた。
「おいおい……ムンバイから帰国したばかりの俺にカレーかよ」
とはいえ、断る理由もない。一時までの時間に余裕があったので、ジムへ向かうことにした。いつものトレーニングメニューをきっちり一時間こなし、シャワーを浴びる。
洋服を選ぶ際、片山の評判に迷惑がかからないようにと右腕のタトゥーが隠れるような長袖のシャツを着用する。バッグを斜め掛けしてタクシーに乗り込み、代官山へと向かった。
八幡通りの坂を登りきったあたりに建つビルの三階フロアに、大学卒業を機に片山が立ち上げた会社『SaaS』が入っている。起業した五年前には片山を含めて五人だった社員も、今は二十人に増え、俺が創業時に貸し付けた資金も、すでに全額返済されるほど、順調に業績を伸ばしている。
そして今回の目的地であるカレー屋は、旧山手通りから一本奥に入った閑静な路地にひっそりと佇む、雰囲気のある小さな一軒家だった。そこの一階に入っているのが、片山お気に入りの北インドカレー店『ナマステ』だ。
木製のドアを押して店内に足を踏み入れる。
店内は木の温もりが漂うモダンでシックな内装で、現地から取り寄せたという繊細な真鍮製のランプが温かい光を落としていた。ほのかに漂うクミンやガラムマサラの芳醇なスパイスの香りが鼻腔をくすぐる。
インド現地の熱気と喧騒に満ちた食堂とは対照的に、ここは都会の隠れ家らしく、ゆったりとしたジャズが流れる洗練された空間だ。
入り口から店内を見渡したが、片山の姿はまだなかった。
「予約していた片山です」とスタッフに告げ、奥のテーブル席へと案内される。
メニューを開き、忙しいだろう片山のためにもランチプレートを二人分先に頼んでおこうと思い、『ランチプレートで二人分頼んでおくぞ』とメッセージを送る。
間もなくして現れた片山は、店の入り口から席に座る俺を見つけると笑顔を浮かべた。
「よっ! お帰り。悪い、待たせた」
「いや。そろそろ注文の品もくるだろうし、いいタイミングだよ」
俺たちは、いつも通りの軽い挨拶を交わして世間話を始めた。
ほどなくして運ばれてきたランチプレートは、まさに日本人の作った美しさだった。
銀色の大きなターリーの中央には、ふっくらと焼き上がった大きなナンと、つやつやとしたライス。彩り鮮やかな新鮮なサラダに、三種類の小鉢のカレー――スパイスのやさしい風味が広がるダルカレー、濃厚でコクのあるバターチキンカレー、そして海鮮の旨味が凝縮されたシーフードカレーが並んでいる。端には赤紫色の玉ねぎのアチャールが添えられ、視覚的にも色彩豊かな仕上がりだ。
本場の食堂で食べる豪快な盛り付けとは違い、色味も配置も一皿の中で綺麗に整えられている。
(本場とはまた違うけど……これはこれで、やっぱり旨そうだな)
香ばしいナンの香りを楽しみながら、俺たちはカレーを食べ始めた。
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