第162話 変わらぬ暮らし、懐かしい習慣
乾燥機が終わり、洗濯物を畳み終えて一息ついていた時のことだった。
何気なく手にしたスマートフォンに、メッセージの着信通知が届いていた。
画面に表示された差出人の名前を見て、思わず目を見張る。
(……勇気君?)
差出人は『大原勇気』。
アグラのタージ・マハルでナナちゃんとコウさんのツーショット写真を彼の従弟がSNSに投稿し、ちょっとした炎上騒ぎを引き起こしてしまった、あの彼だった。
その後、バラナシのガートで偶然再会して以来だから……実に七週間ぶりの連絡だ。
「勇気君? あれ、今、どこにいるんだろう?」
三ヶ月の予定でアジアの旅を続けているはずだが……。今はどこに滞在しているのだろうか? そう思いながら、さっそく届いたメッセージを開く。
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すみれさん、ご無沙汰してます! 勇気です。僕は今、インドのゴアに滞在しています。すみれさんは今、どちらにおられるんでしょうか? 実は、僕が新しく関わることになったアパレルブランド『KAZE』が、経験のあるパタンナーを探しています。以前、すみれさんがパタンナーをされていたと伺ったのを思い出して、連絡しました。もし帰国の予定が立っていたり、興味があったりしたらお話ししたいのですが、いかがでしょうか?
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「……え!?」
スマホの画面に躍るその文字に、息が止まりそうになった。
ブランド名は『KAZE』。
勇気君が新しく働く職場であり、旅先で知り合った彼からの思いがけない仕事の打診。
(ゴアにいるんだ……。それに、パタンナーを探してるなんて……)
今日、スーザンのお店で『布や手芸が好き』『いつか自分のペースでパタンナーとして生きられたら』と未来の夢を語ったばかりだった。
あまりにもタイムリーすぎる知らせに、胸の奥がドクンと大きく脈打つ。
過去を手放し、自分の足で新しい未来へ歩き出そうとしている今の私に、思わぬ方向から風が吹き込んできたような気がした。
◇
夜になり、アンの帰宅に合わせて手際よく夕食の準備を整える。
食卓に並べたのは、出来立てのカルボナーラと、色鮮やかなアボカドのグリーンサラダ。グラスに冷えた白ワインを注ぎ、穏やかな夕食の時間が始まる。
「今日はアートセンターに行って、スーザンに会ってきました。明日からお店で手芸をさせてもらうことになったんです」
私が報告すると、アンは嬉しそうに目を細めてワイングラスを傾けた。
“Oh! She must have been so happy, too. We see each other from time to time, and she’s mentioned you before. I’m so glad things worked out for you.”
『まあ! 彼女も喜んでいたでしょう? たまに会うけれど、前にもすみれの話をしていたのよ。本当に良かったわね』
「はい。スーザンも、お店の雰囲気も変わっていなくて……明日からアートセンターに通うのがすごく楽しみです」
たわいのない会話を交わしながら、楽しく美味しい夕食を済ませる。
食事が終わると、私は片付けを引き受けて、自然な流れで立ち上がり、食器洗いを始めた。私は当時のことを懐かしく思い出していた。
ニュージーランドをはじめとするイギリス連邦の国々では、シンクにお湯を溜め、洗剤を泡立てて食器を洗う家庭も多い。洗った食器を流水ですすぐのではなく、そのまま水切りして乾かす家庭もある。
アンも、食器を洗い終えると、流水ですすぐことなく、そのまま布巾で拭き上げていた。
高校生の私にとって、それはカルチャーショックそのものだった。
「泡がついたまま流水で洗い流さないなんて……体に悪くないの!?」と焦り、アンに素直な疑問をぶつけたのだ。
『えっ! 水洗いしないんですか!?』
『ええ。水洗いは不要なのよ。こうして拭き取るだけで十分なの。水も節約できるでしょう?』
そう言われても、日本の『しっかり水ですすぐ』習慣が染みついていた当時の私は、どうしても気になって仕方がなかった。
(あの頃、学校で他のホストファミリーにホームステイしている留学生仲間にも聞いて回ったっけ……)
けれど、誰に尋ねても返ってくる答えは同じだった。
『うちの家もすすがないのよ』『洗剤が残っていても体に害はないから平気だって言われたの』――どこの家庭もまったく同じやり方で、これがこの国の『あたりまえ』なのだと知った時の驚きは、今でも鮮明に覚えている。
「ふふっ」
思わず口元から笑みがこぼれた。
“What’s wrong, Sumire?”
『どうしたの、すみれ?』
リビングでくつろいでいたアンから、不思議そうな声がかかる。
「ううん、なんでもないです。留学したばかりの頃、アンの皿洗いに驚いたことを思い出して」
“Oh, yes, I remember that. You looked so surprised back then, Sumire. Your eyes were as big as saucers!”
『ああ、そんなこともあったわね。あの時のすみれ、目を丸くして本当にびっくりしていたもの』
アンも懐かしそうに声を上げて笑った。
あの頃は『あり得ない』と戸惑っていた文化の違いも、大人になった今の私には、この国の人々が大切にしてきた節水の知恵であり、温かな生活の匂いそのものに思える。
丁寧に拭き上げた皿を棚に仕舞いながら、私はこの街で暮らしている実感を、もう一度深く噛み締めていた。
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