第161話 ◇ ジャカルタへの帰宅と、不器用な一歩
香港国際空港で幸運にもすみれと再会し、彼女と連絡先……いや、Instagramのアカウント宛にDMを送る許可を得てから、ずっと心がふわふわと落ち着かなかった。
香港発、十九時五分。
機内でぼんやりと雲海を眺めながら過ごし、ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港に到着したのは、現地時間の夜二十二時五十五分だった。
約五時間のフライトを終えて預け荷物を受け取ると、時刻は二十三時半を回っていた。
さすがに専属運転手であるアブドゥルさんを呼ぶのは申し訳なく思い、スマホで配車アプリのGrabをタップする。
車に揺られて自宅のコンドミニアムに帰り着いた時には、すでに深夜の零時を回っていた。
明日は香港出張の代休を兼ねて午後出社になっている。今夜は目覚ましをかけずにゆっくり寝られると思うと、少し気が楽だった。
キャリーケースをリビングに置いたまま、まずは浴室へ向かいシャワーを浴びる。
熱い湯を浴び、髪を洗いながら、頭の中を占めていたのはやっぱりすみれのことだった。
(すみれのインスタに、メッセージを送れる……)
ただそれだけのことが、今の俺にとっては途方もなく大きな救いであり、奇跡のように思えた。細い糸一本でも、確かに彼女と繋がっている実感が胸を温かくする。
さっぱりしたところでリビングに戻り、キャリーケースから洗濯物を取り出して、取り敢えず洗濯機に入れておく。
冷蔵庫から缶ビールを出して、リビングのソファに深く腰掛けてスマートフォンを取り出した。
画面に浮かぶInstagramのアプリからすみれのアカウントを開き、メッセージの入力欄をタップする。
まずは何を送ればいい?
自分の正直な気持ちを伝えたい。そう思って、指を動かした。
==========
『好きです』
==========
「……っ! ダメだダメだ!」
文字を打ち込んだ瞬間、青ざめて即座にバックスペースキーを連打して消去した。
「こんなの送ったら、絶対に『気持ち悪い』ってブロックされる……っ」
冷や汗を拭い、今度はもう少し言葉を柔らかくしてみる。
===========
『すみれに会えて本当に嬉しかった。やっぱり、好きだなって感じたよ』
===========
……いや、これもダメだ。
「っ、結局『好き』って書いてるじゃないか! ああもう、なんなんだよ俺は……!」
重苦しいプレッシャーを与えず、返信を強要せず、けれど読んでも怒られないような、無難なメッセージ。
頭を抱えながらウンウンと悩み抜いた末に、ようやく打ち込んだのはたった一行だった。
===========
『無事に家に着いた。そちらも気をつけて』
===========
「これなら……これなら大丈夫だよな? 怒られる要素はないはずだし、ただの報告だし……」
何度も画面を見返し、誤字がないか確認してから、意を決して送信ボタンを押した。
送信完了のマークがついた瞬間、ふーっと大きく息を吐いた。
たった一行のメッセージを送るだけで、三十分も悩むとは思わなかった。
けれど、暗闇の中に一歩を踏み出せたような、驚くほど軽い気持ちでその夜は眠りにつくことができた。
翌日、昼過ぎにアブドゥルさんの送迎車に乗り込み、オフィスへ向かった。
出社すると、アシスタントのデヴィさんが笑顔で出迎えてくれ、不在の間の社内報告と明日のスケジュールの確認をした。
その後、直属の上司である田中部長のもとへ向かい、事前にメールで送っておいた香港での契約書内容の補足説明と、現地での視察報告を済ませる。
午後は溜まっていた事務処理を片付け、デヴィさんと細かい打ち合わせを終えたところで、あっという間に半日勤務の終業時間を迎えた。
会社のビルを出て、アブドゥルさんに頼んで帰り道にあるスーパーマーケットへ寄ってもらう。
これまでの俺なら、コンビニで適当な弁当を買うか、デリバリーで済ませていただろう。けれど、昨夜から心の中に小さな変化が生まれていた。
スーパーで買い出しを済ませて帰宅し、冷蔵庫に食材を収める。
シャワーを浴びてさっぱりしたところで、夕食を作るためにキッチンへ立った。
帰りの車中でレシピ動画を穴があくほど見て学習してきたメニューがある。今晩は豆腐の味噌汁と親子丼を作るつもりだ。
「さて……作るか。まずは玉ねぎを切って……」
かつて、すみれが当たり前のように立っていたキッチン。
包丁を握りながら、俺は不器用な手つきで一人分の夕食を作り始めた。
◇
慣れない手つきで無事に親子丼を作り終え、一人で夕食を済ませた頃には、時計の針は二十一時を回っていた。
ジャカルタの夜の静けさの中、俺はスマホを取り出し、日本の弟・慎二へビデオ通話をかける。呼び出し音の後、見慣れた弟の顔が表示された。
『よお、兄貴。どうしたの? 香港出張から無事戻った?』
「ああ、昨日の夜遅くにジャカルタに戻ったよ。……慎二、驚くなよ。実は香港で、奇跡みたいなことがあったんだ」
俺が香港の空港ですみれと奇跡的に再会したこと、そして思い切って声をかけたことを話すと、慎二は画面の向こうで目を丸くした。
「二ヶ月余り前、最後に会った時より痩せてたよ……。でも、すごく日焼けしていて……綺麗だった。本当に……びっくりするくらい綺麗だったよ」
すみれの佇まいを思い出すだけで、胸の奥がキュッと締めつけられる。
さらに、すみれからインスタのDMのやり取りを許してもらったことを報告した。
「『返事はしないよ』って釘を刺されたけどさ。……でも、いいんだ。すみれと繋がっているってだけで、ただそれだけで、明日からの仕事も何だって頑張れる気がするんだよ」
慎二は驚きの表情を浮かべた後、心から嬉しそうに目尻を下げた。
『すげー……! そんな奇跡みたいなことがあるんだね。まるでドラマじゃん。すみれさん、めちゃくちゃ驚いてただろう?』
「ああ、本当にびっくりさせてしまったよ。でもな……一緒に飯を食いながら、ちゃんと話を聞いてくれたんだ」
『そっか。すみれさんがOKしてくれたんなら、本当によかったじゃない。……でもさ、兄貴。調子に乗ってまたグイグイ攻めちゃダメだよ? 一発でブロックされちゃうからね』
「……わかってるよ。お前、縁起でもないこと言うなよ」
慎二の容赦ない指摘に、俺は思わず顔をしかめた。
「言われなくても、十分すぎるくらい怖いんだから。俺、もしすみれにブロックされたら、今度こそ本当に死んじゃいそうだよ……」
『ははは、大げさだなあ。でも、まあDMだけでも送れるようになったのは大きな一歩だよ。焦らずじっくりいきなよ』
「ああ。本当に……少しずつ、な」
弟の呆れたような、けれど温かい励ましに救われながら、俺は「また連絡する」と言って通話を切った。
画面を閉じ、もう一度すみれのInstagramを開く。
返事は来ない。分かってはいるけれど、送信済みの文字を見つめるだけで心が安らいだ。
さっそく、今晩もDMを打ち込む。
==========
『今晩は親子丼を作ったよ。美味かった。いつか、すみれにも食べて欲し……』
==========
「いや!ダメだ! 未練がましさが出てて、ウザがられそうだ」
メッセージを一部削除する。
=========
『今晩は親子丼を作ったよ。美味かった』
=========
確認してから送信ボタンをタップした。
「よし……明日もがんばろう」
缶ビールを飲み干して、俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




