第159話 温かいミルクティーと、思い出の甘いクッキー
木製のドアを押し開けると、カウベルの澄んだ音がカランと店内に響いた。
小学校の教室ほどの広さのある店内には、色とりどりの手作りキルトや、棚いっぱいに並べられたヴィンテージのボタン、美しい刺繍糸や色鮮やかなリボンが所狭しと並んでいる。甘いような薔薇の香りと手芸店の独特の温もりが、一瞬で私を十二年前のあの日へと引き戻した。
奥から顔を出した白髪の混じった金髪をお団子に結い上げた女性が、私を見るなり目を見開いた。
“Sumire! Is that you, Sumire?! Oh my goodness! What brings you here?!”
『すみれ! あなた、すみれよね!? まあ、まあまあ! どうしたのいったい!』
「お久しぶりです、スーザン。十二年ぶりになります……お変わりなくて、安心しました」
“Oh, look at you! You’ve grown into such a lovely lady! It’s so good to see you! How have you been? Are you here on holiday?”
『まあ! すみれが大人の女性になったのね! 会えて嬉しいわ! 元気だった? 今回は、旅行?』
「……はい。あの時のホストマザーのアンの家に滞在しています」
“I’m sure she’s thrilled to have you back. I’m so happy to see you again like this!”
『そう。それは彼女も喜んだでしょう。こんなに素敵な女性に成長したすみれに再会できるなんて、本当に嬉しいわ!』
スーザンは愛おしそうに私の両手を握り、何度も頷いてくれた。
店内を歩きながら、棚に並ぶ可愛い生地や繊細なレースを一つひとつ眺める。布地に触れているだけで、心がじんわりと解けていくのが分かった。
(可愛いな。当時も大好きな空間だったけれど……ずっと見ていられるわ)
“You haven’t changed a bit in that way. You used to stare at fabrics with the biggest smile back then, too. Are you on a long vacation?”
『相変わらずね。すみれは当時も布を眺めてはニコニコしていたものね。懐かしいわね。すみれ、長期のバケーションなの?』
「……はい。実は、パタンナーとして洋服を作る会社で働いていたんですが、いろいろ事情があって辞めてしまって……」
“Is that so? Life is full of ups and downs, dear. If you made that choice, you must have had a very good reason. But you can always start looking for a new job when you’re ready. Life is long, after all.”
『そうなのね。人生にはいろいろなことがあるわ。あなたが決めたことなら、よほどの事情があったんでしょう。でも、また改めて仕事を探せばいいのよ。人生なんて長いんだから』
「はい。スーザン、ありがとうございます」
“To me, you’ll always be that sweet seventeen-year-old girl. Now, if you have time, how about a cup of tea?”
『あなたは私にとって、十七歳の可愛い高校生のままよ。さあ、時間があるなら、紅茶でもいかが?』
「はい、喜んでいただきます」
案内されたのは、店の奥にある定番の特等席だった。
入り口の扉を真正面に見渡せるその場所で、スーザンと並んであたたかなミルクティーをいただく。
お茶を飲んでいる間にも、観光客と思われるお客さんたちが次々と店にやってきては、手作りキルトやボタンを手に取り、思い思いに楽しそうな声を上げている。
英語やその他の言語に混じって、時々日本語も聞こえてくる。
観光客も多い店らしく、旅の感想を書き込むボードには、日本語のメッセージも目に止まった。
『素敵なキルトですね ハ○あき』 『可愛いバッグ好きです yumin○』『刺繍糸を買いました Pangasina○』『レースがお気に入りです seiungo○』『懐かしい雰囲気が最高 mame_fuj○』『好みのボタンが見つかりました shiromoka001○』『手編みの帽子ゲット Tiny-b○』『パッチワーク好き kotoha_caf○』
カウベルの音、賑やかな話し声、柔らかな日差し、そして大好きな布や糸に囲まれた時間。
かつて自分が心から愛していた光景が、今、目の前にある。その懐かしさに胸が押しつぶされそうになり、思わず瞼の裏が熱くなった。
私の感極まった表情に気づいたのか、スーザンは何も言わず、さりげなくティッシュの箱を差し出してくれた。
「……すみません」
気まずげに微笑むと、彼女は優しく首を振って微笑み返してくれた。その温かい気遣いをありがたく受け取る。
途中のショップで買ってきたニュージーランドの国民的ブランド『Cookie Time クッキータイム』のチョコチップクッキーをテーブルに差し出した。本当は日本からのお土産を渡せたらよかったのだけれど、思いがけず実現した再会だ。
ザクザクとした香ばしい生地と、ゴロゴロ入った甘いチョコレート。
(……懐かしいな)
インドのムンバイで、マイクさんがお土産に持ってきてくれて以来のクッキータイム。変わらぬ美味しさが口いっぱいに広がる。
(留学中、毎日のようにミルクティーとこのクッキーを食べて、十キロも太って帰国したっけ……)
当時の思春期の自分にとってはまさに世の終わりのような一大事だったけれど、今となってはくすっと笑ってしまう愛おしい思い出だ。
「私……やっぱり、布や手芸が好きです」
紅茶のカップを両手で包み込みながら、心の底から溢れ出た言葉を口にすると、スーザンはくすくすと楽しそうに笑った。
“Oh dear, I’ve known that for a very long time, Sumire.”
『あらあら。そんなこと、私はとっくに見抜いていたわよ、すみれ』
「ふふ、そうですよね」
「会社を辞めた時は、もう服作りの世界からは離れようって思っていたんです。でも……旅先で世界中の色々な布や手仕事に出会うたびに、胸がときめいてしまって。自分の好きなものを、こだわりを持って作れたらどんなに素敵だろうって、最近よく考えるんです」
スーザンは温かな眼差しで私を見つめ、静かに頷いた。
“Designing clothes for a big organization and crafting something with all your heart from scratch are two completely different things. You wanted to make something that brings happiness to people directly with your own hands, didn’t you?”
『組織で洋服を作るのと、心を込めて自分の手で一から仕立てるのとは全く別ものよ。あなたは自分の手で『誰かを幸せにするもの』を作りたかったのね』
スーザンの言葉が、すとんと胸の奥に落ちた。
「そうかもしれません。……でも、組織で働いていたからこそ、売れる服を作ることの必要性や難しさもよく分かるんです。どんなにこだわったものでも、手に取ってもらえなければ届かないから」
“That’s very true. To make a living doing only what you love, you’ll need recognition, skill, and a solid financial foundation.”
『そうね。好きなものばかり作っていられるようになるには、知名度と実力、資金力が必要でしょうね』
「はい。甘くない世界だってことも、痛いほど分かっています」
“But you already have the skill, and more importantly, you have passion. Take your time. Step by step, you will find your own path.”
『でもね、あなたには確かな技術があるわ。そして何より、溢れるような情熱がある。焦る必要はないのよ。少しずつ、あなたの道を見つけていけばいいの』
スーザンの現実的で、けれどどこまでも温かいエールが、胸にじんわりと響いていく。
(ブランドを作る……それとも、自分のペースでパタンナーとして生きていくのかな)
これまでは『会社員として働く』、それしか見えていなかった。
けれど今、私の前には無数の選択肢が広がっているのだと思えた。
自分のブランドを立ち上げて小さなコレクションを作る未来も、フリーランスのパタンナーとしてこだわりのある服作りに寄り添う未来も。
暗闇の中で手探りだった未来の地図に、うっすらと光が灯り始めたような気がした。
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




