↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【片道切符で異国を旅歩く 〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜】  作者: 恋せよ恋
ニュージーランド編 懐かしい場所と自分の気持ち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
157/200

第157話 赤ワインと大人の温かい夜

 二人のグラスが、カチンと静かに重なり合った。

 赤ワインの深く甘い香りが、冬の静かなリビングに漂う。大人の女性同士として、こうしてアンと同じ目線で向かい合っていることが、どこか夢のようでもあった。


 アンはゆっくりとグラスに口をつけ、私を優しく見つめた。


“Are you seeing anyone? Is it okay for me to ask about this?“

『すみれは、お付き合いしている人はいるの? ……この話題、聞いて大丈夫かしら?』


 配慮を込めたアンの問いかけに、私は一瞬だけ息を呑んだ。



 胸の奥で、まだ癒えきっていない傷口がうずく。


 香港の空港で健一と過ごした時間、そして三ヶ月ぶりに彼と話した記憶が、波のように押し寄せてくる。



 けれど、今の私は逃げたくなかった。


 目の前には、シングルマザーとして様々な葛藤や痛みを乗り越え、自分の人生を逞しく切り拓いてきたアンがいる。彼女の温かな眼差しに背中を押されるように、私は静かに息を吐いた。


「……実は、日本を出る少し前に、婚約を解消したんです」


“…Well.”

『……まあ』


 アンは驚いたように目を見張り、それから悲しそうに眉をひそめた。言葉を挟まず、ただまっすぐに私の次の言葉を待ってくれている。



「九年間、ずっと一緒にいた人でした。結婚の準備も進めていて……でも、彼が他の女性と関係を持っていたことがわかって。私はそれを、許してあげることができなかったんです」


 ぽつり、ぽつりと、これまで心の奥に溜め込んでいた想いが言葉になって溢れていく。


「自分を守るために婚約を解消して、半ば逃げるようにこの旅を決めました。でも――クライストチャーチに来る前、香港の空港で、思いがけないことがあったんです」


“At the airport?”

『空港で?』


「はい。展望デッキでたまたま……本当に奇跡みたいな確率で、彼と再会してしまったんです」


 アンは目を見開いた。


「彼は今、ジャカルタに赴任していて、出張で香港に来ていたんです。最初は動揺して、どうしていいか分かりませんでした。三ヶ月前の自分なら、きっと話もせずに逃げ出していたと思います。……でも、旅に出て少しずつ自分の足で歩き始めていたからなのか、最後に向き合おうって思えたんです」


 私は手に持ったグラスを見つめながら、空港のフードコートで過ごした最後の時間を思い返した。



「二人で食事をしながら、別れの原因となった女性とのこと、これまでのことを話しました。彼も何度も謝ってくれて……。空港で彼と別れる時、私、ちゃんと言えたんです。『元気でね』って」


 そこまで話すと、すっと肩の力が抜けるのが分かった。


「あの再会があったから、私は本当の意味で過去に区切りをつけることができました。逃げてきたんじゃなくて、これから新しい自分として生きていくために、ここに来られたんだって思えるようになったんです」


 アンは静かにワイングラスをテーブルに置くと、両手で私の手をそっと包み込んでくれた。女手一つでケビンを育て、私を暖かく迎えてくれたその手のぬくもりが、心に染み渡る。


“It must have been hard, Sumire. But… you’ve really grown stronger.“

『辛かったわね、すみれ。でも……本当に強くなったわね』


「アン……」


“It must have taken so much courage to end a nine-year relationship, and to face your former fiancé and say goodbye while you were traveling. You stood on your own and chose your own path again. You should be proud of yourself.”

『九年間続いた関係を終えるのも、旅先で元婚約者と向き合って別れを告げるのも、どれほど勇気がいることか。あなたはちゃんと自分の足で立って、自分の人生を選び直したのよ。素晴らしく立派だわ』


「アン……。ありがとう」


“It somehow reminds me of when I got divorced.”

『なんだか、離婚した時のことを思い出すわ』


 アンはどこか遠くを見る目つきになり、静かに微笑んだ。


“You know, right after I decided to get divorced, I felt like my whole life was over. But I was wrong. The only thing that ended was my old life. My life itself was just beginning. It’s the same for you, Sumire. You’re standing at the beginning of a new chapter in your life.”

『私もね、離婚を決断した直後は自分の人生がすべて終わってしまったような気がしたの。でも、違ったわ。終わったのは、あの頃の人生だけ。私自身の人生は、そこから新しく始まったのよ。すみれも同じ。あなたは今、新しい未来の入り口に立っているのよ』


 美味しいワインとアンの言葉が、胸の奥をじんわりと温かくしていくのを感じていた。


 赤ワインのボトルが空になる頃には、時刻は九時を過ぎていた。


“Sumire, are you good with alcohol? You don’t look drunk at all. What do you think? Shall we open another bottle of wine?”

『すみれ、お酒は強いの? あなた、まったく変わらないように見えるけど。どうする? 新しいワインを開ける?』


「いえ。私は大丈夫ですけど、アンは明日もお仕事でしょう? 今晩はここまでにしておきます」


 私たちはほろ酔い気分のまま、グラスを片付けると、おやすみの挨拶をしてそれぞれの寝室へと向かった。


 ◇


 ベッドに潜り込むと、心地よいアルコールの熱と疲れが、ゆっくりと全身に広がっていった。


 アンと語り合った夜。


『過去の契約が終わっただけ。あなたの人生はこれから始まるの』


 彼女の温かい言葉が、迷っていた心にすっと染み渡っていくのを感じていた。



 最近の私なら、寝る直前までスマートフォンを握りしめ、SNSで誰かと自分を比べては夜の静けさに怯えていただろう。けれど今夜は、画面を確かめることすら頭に浮かばなかった。他人の視線も、日本に残してきた過去も、今の私には遠い出来事のように思えた。


(明日は、どこかへ行こうかな……)


 十二年前の記憶を辿りながら、行きたい場所を幾つか頭に浮かべる。決まった予定もない、誰のためでもない、私だけの自由な毎日。


 スマートフォンの通知音すら気にすることなく、私は深く息を吐いた。まぶたが重くなり、そのまま吸い込まれるように、穏やかな眠りへと落ちていった。


「面白かった」と思っていただけましたら、

・ブックマーク

・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて

ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。