↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【片道切符で異国を旅歩く 〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜】  作者: 恋せよ恋
ニュージーランド編 懐かしい場所と自分の気持ち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
156/200

第156話 十二年の時を超えた二人の時間

 クライストチャーチに到着したその日は、長旅の疲れもあって、夕食はごく簡単なものだった。


 アンが用意してくれた温かなスープと、トマトソースのスパゲッティ。


“You don’t have to eat if you’re not up to it. You must be tired after such a long trip.”

『無理しないでね。長旅で疲れたでしょう?』


「はい、ありがとうございます」


 優しい味のスープを口に運びながら、私は小さく息を吐いた。

 食事が終わると、昔と同じようにリビングでミルクティーをいただく。



 香港からの長時間のフライト。そこから空港を出て、シャトルバスとタクシーを乗り継ぎ、十二年ぶりにこの家へ帰ってきた。


 さすがに身体は疲れていた。香港とクライストチャーチの時差はニュージーランドの方が四時間進んでいるので、今晩は早めに就寝することにする。



「明日は気を遣わなくていいから、ゆっくり寝ていればいいわ。のんびりしなさい。私は朝から仕事に出るけれど、冷蔵庫から適当に食べてね。昔と一緒よ。大丈夫よね?」


「はい。本当にありがとうございます」


 アンは昔と変わらない笑顔を浮かべた。



「それじゃあ、おやすみなさい、すみれ」


「はい。おやすみなさい、アン」


 自室へ戻り、シャワーを浴びると、そのままベッドへ潜り込んだ。


(昔は、ケビンがシャワーの時間が長くて、よくアンに怒られてたなあ)


 この家では当時からホットタンクに貯めたお湯を使っていた。タンクのお湯を使い切ってしまえば、当然、シャワーから出てくるのは冷たい水だけになる。再びお湯が沸くまでには時間がかかるため、家族みんなが気持ちよくシャワーを使えるよう、長時間のシャワーは控えるのがこの家の暗黙のルールだった。


 ケビンがシャワーを長々と浴びていると、アンがよく「早く出なさい」と叱っていたっけ。


(あれって、私に気を遣ってくれていたんだろうな)


 当時は、ただケビンが怒られているのを見ていただけだった。


 でも今になって考えてみれば、私がシャワーを浴びる頃には、ちゃんとお湯が残っているようにしてくれていたのかもしれない。


 十二年ぶりにこの家へ帰ってきて、そんな小さな記憶まで、次々と思い出されてくる。


 懐かしいな……。そう思いながら、私はゆっくりと目を閉じた。

 懐かしい部屋。ベッドに身体を預けた途端に全身の力が抜けていく。


 香港でお世話になったリリーのお宅の、窓のない小さな部屋は圧迫感があって、正直、居心地は良くなかった。それでも、リリー一家が気遣ってくれたことは嬉しかったし、宿泊費の高い香港では、本当にありがたかった。


 明日は何をしよう――そんなことを考える間もなく、私はスマートフォンも開かずに、深い眠りへと落ちていった。


 ◇


 翌朝。目が覚めたのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。


「……よく寝たなあ」


 ぼんやりと呟きながら、ゆっくりと身体を起こす。


 香港からクライストチャーチまでの長い移動に加え、四時間の時差。まだ少し身体が重いけれど、嫌な疲労感ではなかった。



 カーテンを開けると、冬の柔らかな日差しが部屋の中へ差し込んでくる。

 

 窓の外には、小さな冬枯れの庭。もちろん十二年前とは木々の大きさも景色も少し変わっている。けれど、この家の空気は不思議なくらい昔のままだった。



 身支度を整えて部屋を出ると、家の中はしんと静まり返っていた。


「アン……もう仕事に行ったんだ」


 リビングを覗いてみるが、当然アンの姿はない。テーブルの上にはメモが残されていた。



“Good morning, Sumire. Just like old times. There’s milk in the fridge, and cereal and bread in the cupboard, so help yourself. I’ll be home around five. Take it easy and make yourself comfortable. —Anne”

『すみれ、おはよう。昔と一緒よ。冷蔵庫にミルク、戸棚にコーンフレークとパンがあるから、自由に食べて。帰りは十七時頃になるわ。ゆっくりしてちょうだいね。 アン』


 それを見て、思わず口元が緩む。


(昔と一緒だ……)


 当時、高校生だった頃もそうだった。アンは仕事に出かけるとき、いつも私に『好きにしていていいからね』と言ってくれた。

 その言葉に甘えて、学校から帰ってきた私はリビングで宿題をしたり、本を読んだりしていた。



 冷蔵庫を開けると、卵や野菜、ヨーグルト、牛乳や果物が綺麗に並んでいる。コーンフレークを器に入れ、バナナを刻んで加え、牛乳を注いだ。


 簡単な朝食を済ませたあと、紅茶を淹れる。牛乳を加えて定番のミルクティーにする。

 留学中に周囲に合わせて飲み出したミルクティーだ。とにかく『紅茶飲む? 牛乳入れるわよね』と言われ続けた思い出がある。


 慣れた手つきでカップを持ち、リビングのソファへ腰を下ろした。


 スマートフォンを取り出し、なんとなくニュースやSNSをネットサーフィンする。なんとなくだが、知り合いのチャンネルを覗く気にはなれなかった。


 視線が窓の外へ向く。そして――ふと、昨日久しぶりに会った、アンの顔を思い出した。



 高校生だった頃、私はアンが何歳なのかなど考えたこともなかった。ただ『ホストマザー』。それだけだった。優しくて明るくて、いつも自分を気遣ってくれる人。それ以上でも、それ以下でもなかった。


 けれど、今の私は二十九歳。昨日アンと再会して、初めて気づいたのだ。


 あの頃のアンは――自分が思っていたほど『遠い大人』ではなかったのだと。



 当時、アンは三十五歳だったと昨夜の会話で分かった。


(……当時のアンって、今の私より六歳しか上じゃなかったんだ)


 思わず苦笑する。


 高校生だった自分にとって、アンは遥か年上の『大人』だった。

 けれど今の自分は二十九歳。あと六年で、当時のアンと同じ年齢になる。そう考えると、なんとも不思議な感覚だった。



 そして、昨日の会話を思い返す。


 アンは高校を卒業して間もなく妊娠が判明し、十九歳でケビンを産んだのだそうだ。

 大学へ進学する道は、その時点で一度途切れた。その後、クラスメイトだったケビンの父親と結婚したが、ケビンが五歳になった頃、二十四歳で離婚。まだ若かったアンは、幼い息子を抱え、シングルマザーとして働き始めたという。


 決して楽な生活ではなかった。それでも、元夫の両親がアンとケビンを支えてくれたそうだ。アンの両親については彼女が何も語らなかったので、何か事情があるのかもしれないと思い、私からは聞かなかった。



 私も留学中、何度かアンの元夫の実家を訪れたことがあった。

 高台にある閑静な住宅街。広い庭のある大きな家で、ケビンの祖父母にあたる二人が暮らしていた。アンにとっては離婚した後も変わらず支えてくれる、大切な家族だったのだ。


 そしてアンは、私が留学していた頃、ちょうど補助金制度を利用して大学へ通い始めていた。昼間は仕事、夜間と通信教育を組み合わせながら、六年かけて大学を卒業した。決して華やかな学生生活ではなかったけれど、アンは諦めなかった。だからこそ今では仕事も安定し、経済的にも時間的にも、ようやく少し余裕ができたのだという。



 紅茶を一口飲む。


(……私、何も知らなかったんだな)


 高校生だった自分は、アンを『ホストマザー』としか見ていなかった。

 アンがどんな人生を歩んできたのか。何を諦めて、何を選んできたのか。そんなことを知ろうとしたことすらなかった。


 けれど、今は違う。


 自分も二十九歳になり、人を愛し、婚約をし、結婚を目前にして――それを失った。

 人生には思い通りにならないことがある。選んだ道を、途中で変えなければならないこともある。そういう痛みを、少しだけ知る年齢になった。

     

 ◇


 その日の夕方。アンが仕事から帰ってくると、二人でキッチンに立ち、簡単な夕食を済ませた。


 食後、アンがワインのボトルを取り出す。


“Sumire, would you like some wine?”

『すみれ、少し飲む?』


「はい」


 グラスに赤い液体が注がれる。


“I never imagined that one day we’d be sitting here, drinking wine together like this.”

『こうして二人でワインを飲む日がくるなんて、昔は想像もしなかったわね』


「本当ですね」


 私はワイングラスを傾ける。私たちは今、大人の女同士として、同じ目線で向かい合っている。


“Since you were a year ahead of Kevin in school, you’re twenty-nine already.”

『すみれは、ケビンの一つ上だったから、もう二十九歳なんだものね』


「はい」


“Time really does fly.”

『時間が経つのは早いわ』


 アンが遠くを見るようにして笑った。


“Me neither. I never thought my life would turn out like this.”

『私もね。昔は、自分がこんな人生になるなんて思っていなかったのよ』


 私は黙ってアンの話を聞いた。


 十九歳で母親になったこと。大学へ行けなかったこと。

 そして、離婚してケビンを育てながら働いたこと。周囲の人たちに助けてもらったこと。そして何年もかけて大学を卒業したこと。


“It did take me six years, though.”

『六年もかかったけれどね』


 アンは照れたように笑う。


“But I was so happy when I finally graduated.”

『でも、卒業したときは本当に嬉しかったわ』


「すごいです。本当に尊敬します」


“Oh, it was nothing.

『そんなことないわよ』


「いえ! すごいですよ。私だったら、途中で諦めてしまうかもしれません」


“…I suppose so.”

『そうね……』


 アンは少し考えてから、ワインを一口含んだ。


“But I think having Kevin gave me the strength to keep going.”

『でも、ケビンがいたから頑張れたのかもしれないわ』


「ケビンが?」


“Yes. I never wanted him to feel that his mother had to give something up because of him.”

『ええ。あの子には、できるだけ『母親が何かを諦めたのは、あなたのせいなのよ』なんて思わせたくなかったから』



 言葉を失った。アンの横顔を見つめる。


 昨日までは、思い出の中の『ホストマザー』だった女性。

 けれど今は違う。アンも自分と同じように、悩みながら、選びながら、必死に人生を歩んできた一人の女性に見えた。



「……アン」


“Hmm?”

『なあに?』


「私、昔はアンのこと、何も知らなかったんですね」


“Hehe. You were just a high school student back then. It’s only natural.”

『ふふ。高校生だったんだから、当たり前でしょう?』


 アンは優しく笑った。


“But you’re different now.”

『でも、今は違うわ』


「……はい」


“We can talk about so many things now.”

『今のすみれとなら、いろんな話ができるもの』


 その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。


「……私、アンに話したいことが、たくさんあります」


“Really?”

『そうなの?』


 アンはグラスを持ち上げた。


“Then we’ll probably be up late tonight.”

『それなら、今夜は長くなりそうね』


「はい」


 二人のグラスが、カチンと静かに重なり合った。


 十二年前、この家で『ホストマザー』と『日本から来た高校生』だった二人は――今夜、初めて大人の女性同士として、互いの人生を語り始めた。


「面白かった」と思っていただけましたら、

・ブックマーク

・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて

ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。

q

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。