第155話 変わらない家、変わった私
“Come on in, Sumire.”
『さあ、入って、すみれ』
アンに促され、私は十二年ぶりに懐かしい家の中へと足を踏み入れた。
十七歳、高校二年生の時に過ごした一年間の留学生活。
もう干支が一周するほどの時間が流れたというのに、小さな平屋の家の中は、驚くほど昔と変わっていなかった。
クライストチャーチは、アンティークの『Furniture shop 家具屋』が多く、古い家具を手入れしながら大切に使い続ける文化が根付いている。この家にある家具も、アンが昔から丁寧に磨き込んできたものばかりだ。しっとりとした使い込まれた家具の艶と、部屋に微かに漂うアロマの香り。まるで時間が止まっていたかのような錯覚を覚える。
“Sumire, you can use this room. It might bring back some memories, don’t you think?”
『すみれ、この部屋を使ってちょうだい。当時を思い出すんじゃない?』
アンが案内してくれたのは、かつて私が暮らした、懐かしい部屋だった。
部屋の中央には一台のベッドがあり、小さな木製のデスクと椅子。そして、アンティークのライティングビューローも、当時と同じ存在感でそこにあった。
壁には白い扉のクローゼット。庭に面した大きな窓からは、冬の柔らかな日差しが差し込んでいる。
(……ああ、本当に変わってない)
ベッドに腰を下ろすと、マットレスの沈み具合まで記憶の中にあるままで、胸の奥がじんわりと熱くなった。
部屋にバッグパックを置き、アンの待つリビングへ戻る。
客間の奥には、当時と変わらぬ存在感を放つグランドピアノが存在感を放っていた。
けれど、家の雰囲気は昔のままでも、決定的になにかが違っていた。
それは、この家にもう一人の住人がいないことだ。
私の一つ年下で、当時は『Year11・ Level 1 高校一年生』だった、アンの一人息子ケビンの気配が、どこにもなかった。
「アン、ケビンは? 今はクライストチャーチで働いているんですか?」
ソファに腰を下ろし、紅茶を淹れてくれたアンに尋ねると、彼女は少し誇らしげに、けれど寂しげに微笑んだ。
“No. He’s a musician in Los Angeles now. Oh, right! We should watch his music video together later. When I told him you were coming, he got really nostalgic about the old days.”
『いいえ。彼は今、ロサンゼルスでミュージシャンをしているわ。そうだ! 後で一緒に彼のミュージックビデオを見ましょうね。すみれが来ることを話したら、すごく懐かしがっていたわよ』
「えっ、アメリカに!? 当時から音楽が好きだったのは知っていましたけど、夢を叶えたんですね。すごい、おめでとうございます!」
私は驚きとともに、心からの祝福を伝えた。高校生の頃、いつもヘッドホンをしてピアノに向かっていたケビンの姿が目に浮かぶ。
“ Yes, it seems like he’s doing well. But… these days, he could make music even if he stayed here in Christchurch, couldn’t he? As his mother, I have to admit, I do miss having him around.”
『そうね、頑張っているみたい。でも……今の時代、クライストチャーチにいたって音楽はできるんじゃないかしらね。母親としては、やっぱり寂しいわよ』
「そうですよね……一人息子さんですもんね。ケビンは、今も独り身なんですか?」
“Yes, I think so. Although, for all I know, he could have gotten married without telling me. Boys can be rather reserved about things like that.”
『ええ、そのはずよ。まあ、報告がないだけで、いつの間にか結婚している可能性もあるけれどね。男の子って、そういうところ素っ気ないものよ』
「ケビン、当時からすごくモテていましたもんね。学校でも有名でしたよ」
“Yes. I wonder who he takes after… Well, his father, obviously.”
『ええ。一体、誰に似たのかしらね。……まあ、別れた夫だわね、間違いなく』
アンは肩をすくめて苦笑いした。
「ああ、確かに。一度ケビンのお父様にお会いしたことがありましたけれど、彼はお父様にそっくりでしたね」
“Right? Well, if he wants to be a star, having good looks certainly helps. So I suppose it all worked out in the end.”
『そうでしょう? まあ、ミュージシャンとして成功したかったら、ビジュアルが良いに越したことはないから、結果オーライなんじゃない?』
「最後にケビンに会ったのは、いつですか?」
“Last year, there was a big music festival in Auckland over the Christmas holidays, so he came back to New Zealand. He stopped by here before heading back to Los Angeles after New Year’s. It had been three years since I’d seen him, but he looked well.”
『去年、クリスマスホリデーにオークランドで大きな音楽フェスがあって、ニュージーランドに帰ってきていたの。だから、ニューイヤーが明けてロサンゼルスへ帰る前に、この家に寄ってくれたわ。三年ぶりだったけれど、元気そうだったわよ』
「でも、ビデオ通話はしているんですよね?」
“Yes, about once a week. Although I’m usually the one who practically drags him home. I can’t relax unless I see his face.
『ええ、一週間に一度くらいはね。こっちから無理やり呼び出している感じだけど。顔を見ないと安心できないもの』
「ふふふ。相変わらず仲良しですね。お二人の、あの陽気なやり取りが懐かしいです」
“Really? You were such a quiet girl back then, Sumire. Seeing you come back all grown up like this brings back so many memories for me, too.”
『そう? すみれは大人しい女の子だったから、こんなに大人っぽくなって帰ってきて、私こそ懐かしい気持ちでいっぱいよ』
当時の私にとって、高校生のケビンの母親であるアンは、まるで『ニュージーランドのお母さん』のような存在だった。
けれど、あの頃のアンは、パートタイムの仕事を掛け持ちしながら大学に通い、いつも必死に勉強している人でもあった。
女手一つでケビンを育て、生活のために、私のような留学生をホストファミリーとして受け入れているのだろうと、子供心にも感じていた。
十二年の歳月を経て、大人になった私が、今のアンとこうして対等に向き合い、昔話を語り合っている。
それは、不思議で、とても温かい時間だった。
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