第154話 冬の風と、懐かしい温かさ
食事を終えたあと、健一を見送るために向かった搭乗口の待合室。
私は何度も時計に視線を送っていた。表示されている時刻は、十八時五十分。
(あと十五分……)
隣の椅子には、私の大きなバックパックが置かれている。
香港での滞在も、いよいよ終わり。
今日、私はクライストチャーチへ向かい、健一はジャカルタへと帰る。
ついさっきまで、まさかこんな場所で健一と再会するなんて思ってもいなかった。泣いて、食事して、いろいろ話して、昔のように笑って。けれど――それでも私たちは、それぞれの道へと歩き出す。
十九時が近づくにつれて落ち着かなくなり、指先を小さく握りしめた。
やがて、『キャセイパシフィック航空 CX797便 ジャカルタ行き』の最終の搭乗を告げるアナウンスが響き渡った。
“Final boarding call for Cathay Pacific flight CX797 to Jakarta. All passengers traveling on flight CX797 are requested to proceed to the gate immediately. Thank you.”
『キャセイパシフィック航空、CX797便、ジャカルタ行き。最終搭乗のご案内です。CX797便をご利用のお客様は、搭乗口へお急ぎください。』
ガラス越しに駐機場を見つめる。多くのキャセイパシフィック航空の機体が停止している。もちろん、健一の乗った飛行機がどれかはわからない。
胸の奥が、ツキンと小さく痛む。
十九時五分。健一の乗った飛行機の出発時刻になった。
(……健一、もう飛び立つのかな)
キャセイパシフィック航空の機体が次々とゆっくりと動き始めた。
私は立ち上がり、窓ガラスに近づいてその姿を目で追った。
滑走路へとゆっくり進み、静かに速度を上げていく。そして――暗くなり始めた香港の空へと、順番に滑るように高く飛び立っていった。
(……さようなら)
心の中で、もう一度だけ呟いた。
機影が暗闇の中に消えて見えなくなるまで、私はずっとその空を眺めていた。
もう、涙は流れなかった。
待合室に座り、やがて時計を見ると、二十時十五分。私の搭乗案内が始まった。
バックパックを背負い、ゲートをくぐる。機内へと進み、指定された窓側の席に腰を下ろした。
シートベルトを締め、窓の外へ目を向ける。
二十時四十分。定刻に飛行機が離陸し、夜の空へと上昇していく。少しずつ小さくなっていく香港の夜景を、窓に額を寄せるようにして見つめていた。
香港を離れ、次に向かうのは――ニュージーランドのクライストチャーチ。
高校時代に一年間だけ留学していた街だ。今回の旅で、再びクライストチャーチを訪れることにしたのだ。
安定飛行に入ると、ほどなくして機内食が配膳された。食事を終えると、機内の照明が落とされる。私はシートに深く身体を預け、静かに目を閉じた。
シンガポール、マレーシア、インド、香港、そしてニュージーランド。
この二ヶ月余りの間、私は必死に前へ進もうとしてきた。
それなのに香港で、過去と向き合うことになった。健一との再会が、この先の私に何をもたらすのか、今はまだ分からない。
けれど、ひとつだけ確かなことがある。健一と出会う前の高校生の自分が過ごした街へ戻り、今の私としてもう一度街を歩いてみよう――そう思えていた。
(アンに会って、話を聞いてもらおう。彼女は今の私になんと言葉をかけるのだろうか)
約十二時間のフライトを経て、翌日の昼過ぎ。クライストチャーチ国際空港に到着し、入国審査を終えて空港の外へ足を踏み出した瞬間、冷たい空気が容赦なく頬を撫でた。
「……っ、寒い」
思わず肩をすくめた。吐いた息が白く煙る。
香港では半袖でも過ごせるほど暖かかったのに、ここは空気そのものが違っていた。
七月のクライストチャーチは真冬。気温も一桁台まで下がっている。冷たい空気が身体の芯まで染み込んでくる。
芝生やくすんだ木々の景色に、思わず息を漏らす。
(ああ……ここは、冬だった)
耳に入るニュージーランド訛りの英語にどこか懐かしさが込み上げる。上着の襟元をしっかりと合わせ、私は市街地へ向かうシャトルバスに乗り込み、暖房の効いた車内で窓の外を眺める。
広々とした道路、低い建物、遠くに見える山々も、どこか寒々しく見えた。香港の高層ビル群とはまるで違う、静かで穏やかな風景だった。
三十分ほどでバスは中心部へ入り、私はかつて歩いた記憶を巡らせた。あの頃は英語を聞き取ることさえ苦手で、授業ひとつにも緊張していたっけ。
今回の旅でこの街を訪れるにあたり、事前にかつてのホームステイ先へ連絡を入れていた。ホストマザーのアン。高校時代の私を温かく受け入れてくれた女性だ。
あれから季節の挨拶程度しか交流してこなかったが、彼女が二年ほど前に日本に旅行に訪れた際は東京を案内したこともあった。
私の突然の連絡だったにもかかわらず、『もちろんよ! いつでも泊まりにいらっしゃい』。届いた返信はあの頃と変わらない温もりに満ちていた。
バスを降りてタクシーを拾い、送られてきた住所を伝える。中心部を抜けると、低い生け垣と煙突のある平屋が並ぶ、閑静な住宅街へと入っていった。
「……ここだ」
車が静かに停車する。窓の外には、記憶のままの家があった。
白壁の落ち着いた平屋に、グレーの屋根。アプローチの両脇に広がる冬の芝生。毎朝、ここからバスで学校へ通っていた日々が鮮明に蘇る。
車を降り、バックパックを背負い直して玄関へ向かおうとした、その時だった。
“Sumire!”
『すみれ!』
玄関の扉が開き、懐かしい声が響いた。
そこに立っていたのは、メガネをかけた女性――アンだった。
“Anne!”
『……アン!』
“Oh my goodness! Sumire!”
『ああ! 本当に、すみれなのね!』
アンは弾んだ声を上げ、玄関から駆け出してくる。
そして両手を広げ、私の身体を勢いよく抱きしめた。
“Welcome home!”
『おかえりなさい!』
その温かい抱擁と言葉に触れた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、目頭が熱くなった。
(……ただいま)
何も知らなかった高校生の私を受け入れてくれた場所。今の私を『おかえりなさい』と迎えてくれる人がいる場所。
アンの腕の中で、私は深く息を吐き出し、肩の力をゆっくりと抜いていった。
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