第153話 空港フードコートでの食事と、温かな記憶
香港国際空港、第1ターミナルの制限エリア内。
保安検査を終えた制限エリアの中央には、眠らない街・香港らしく、レストランやフードコートが賑やかに広がっている。定番の飲茶や点心はもちろん、世界各国の料理店が立ち並ぶエリアを、二人は並んで歩いていた。
「すみれは、韓国料理好きだろ? ビビンバとかスンドゥブの店もあるぞ」
賑やかな店並みを指さしながら、健一が気遣うように声をかけてくる。
昔と変わらない私の好みを覚えていてくれたことが嬉しくて、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
「うん、好きだけど……今は、あそこの『莆田 PUTIEN』にしようかな。シンガポール発祥の福建料理のお店みたいで、空港に来る前に調べてて、気になってたんだよね」
「へえ、福建料理か」
「健一は、エスニック系は苦手でしょ? ハンバーガーとかにする?」
昔の健一はパクチーや、エスニック系独特の香辛料が苦手で、デートでは和食か洋食を選ぶことが多かった。だから何気なく尋ねたのだが、健一は苦笑いを浮かべながらかぶりを振った。
「いや、俺も今は食べられるようになったんだ。ジャカルタに行ってからさ。食わず嫌いだったみたいで、食べてみたら意外と慣れるもんだな」
「へえ、そうなの? あんなに避けてたのにね」
「まあな。生活が変わると味覚も変わるみたいだ……俺は『鮨孝 Sushi Taka』にしようかな。久しぶりに海鮮丼が食べたい」
それぞれカウンターで注文を済ませ、呼出ベルを受け取って広々としたテーブル席に腰を下ろす。
出来上がった料理を運んで席に並べると、健一が私のトレーを覗き込んできた。
「すみれ、それ何?」
「これはシンガポール・チキンライス。蒸し鶏が柔らかくて、タレも食べやすくて美味しいよ。少し食べる?」
「……ああ、じゃあ一口もらおうかな」
「どうぞ。……健一、こっちにドリンク置いておくね。ナプキンも一枚使う?」
「サンキュ。こっちのサーモン丼も食べてみるか? すみれ、サーモン好きだろ」
「……うん。じゃあ、少しだけちょうだい」
健一が、私の皿にサーモンとご飯を取り分けてくれる。
お互いの飲み物を倒さない位置へ自然にずらしたり、カトラリーやナプキンをサッと手渡したり。言葉にしなくても手が動くスムーズなやり取りは、長年付き合ってきた二人だからこその呼吸だった。
自分の皿に取り分けてもらったサーモンを口に運ぶ。脂が乗っていて、じんわりと優しい味が広がる。
「……健一と食事に出かけると、こうやっていつもちょっとずつシェアしてたよね」
不意に零れ落ちた言葉に、自分でも驚いて一瞬口をつぐんだ。けれど、胸の中に湧き上がってきたあたたかい感情を隠すことはできなかった。
「……懐かしいね」
そう呟いて微笑むと、健一も手元の箸を止め、少し目元を緩めて優しく頷いた。
「……うん。懐かしいな。昔はよく、こうやって二人で食事に出かけたな」
「健一、私が頼んだものをいつも一口欲しがるんだもん」
「だって、すみれが食べてると美味しそうに見えるんだよ」
「それ、私が頼んだものを味見する言い訳だったでしょ」
「まあ……それもある」
健一が苦笑する。
思わず、私も笑ってしまった。
「……変わらないね」
「え?」
「そういうところ」
言ってから、少しだけ胸が痛んだ。
三ヶ月ぶりに会ったのに、こうして話していると、まるで昨日まで一緒にいたような気がしてしまう。
でも、私たちの間には二ヶ月余りの距離がある。
そして、その間に起きたことは、決して小さなことではなかった。
「……健一は、元気だった?」
「元気……だったと思う。でも、毎日、何かが足りなかった。……九年も付き合ってたんだもんな」
健一がぽつりと言った。
「うん」
「そりゃ、こういうのも身体が覚えてるか」
「……そうだね」
私は小さく頷いた。
「九年間……本当に、いろんなところに行ったよね」
「行ったな。国内も海外も」
「最初の旅行、京都だったよね」
「ああ。付き合って半年くらいだったか?」
「うん。健一、旅館の予約日を一日間違えてた」
「……あったな、それ」
「私、あのとき本気で焦ったんだから」
「ごめんって。でも、あの時の気持ちは今でも覚えてるよ」
また笑ってしまう。
くだらない失敗も、どうでもいい喧嘩も、今となっては不思議なくらい鮮明だった。
「……楽しかったね」
その言葉が口から出た瞬間、健一の表情が止まった。
私自身も、少し驚いていた。でも、嘘ではなかった
「……うん」
健一はゆっくりと頷いた。
「俺も……楽しかった」
しばらく、二人とも黙って料理を口に運んだ。
さっきまで心地よかった沈黙が、今度は少しだけ重く感じられる。
「……だからこそ、なのかな」
健一がぽつりと呟いた。
「何が?」
「俺がしたことが、余計に許せないんだと思う」
箸を持つ手が止まった。
「九年間、一緒にいて……結婚するって決めて。なのに俺は、その大切なものを自分で壊した」
「……じゃあ、どうして浮気したの?」
「どうして浮気したのか、自分でもずっと考えてた。仕事が忙しかったからとか、酒を飲んでいたからとか、そういう理由じゃない」
「じゃあ、どうして? 私たち、一緒に暮らしてたよね」
「うん」
「九年って……そんなに簡単になくなるもの? 一緒に暮らして、結婚するって決めて……。私は、これからもずっと健一と一緒にいると思ってた。それなのに、健一にとっては……違ったの?」
「違わないよ! 俺も、すみれとずっと一緒にいるつもりだった」
「……私も、ずっと考えてた」
「うん」
「何が悪かったんだろうって」
健一が顔を上げる。
「私がもっと可愛げがあったらとか。もっと魅力的だったらとか……」
「それは違う!」
健一の声が、はっきりと私の言葉を遮った。
「それは違う! すみれのせいじゃない」
「……」
「俺が悪いんだよ。すみれは悪くない」
まっすぐにそう言われて、胸の奥が苦しくなる。
「……あの女性とは?」
「……終わってる。もともと、続ける気はなかった」
「そう。……でも、結婚してからも遊ぶつもりだった?」
「それはない! ……信じてもらえないかもしれないけど、結婚したら、すみれを裏切るつもりなんてなかったよ」
「……じゃあ、どうして?」
すみれは、少しだけ視線を落とした。
「泊まりがけの出張も、女性と一緒だったんでしょう?」
「……」
「それに……結婚式は、面倒だと思ってた?」
健一の表情が強張る。
「……私、健一のLINEのやり取りを見たのよ」
「……LINEを?」
健一の顔から、血の気が引いた。彼は、しばらく黙りこむと、やがて、小さく息を吐いた。
「……あの女性とのことは……事実だ……よ」
「……うん」
「俺が悪かった、ごめん」
健一は、まっすぐにすみれを見つめた。
「でも……出張のことは、本当に仕事だよ」
「……本当に?」
「ああ。出張先で、取引先の女性社員と一緒になることはあった。食事をしたり、仕事の話をしたりすることもあったよ。でも、出張先で女性と関係を持ったことなんて一度もない」
「……」
「信じてもらえないかもしれないけど、そこは本当だ」
すみれは、黙ったまま健一を見つめていた。
「それから……結婚式のことも」
健一が言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「俺は、すみれとの結婚式を面倒だなんて思ってなかった」
「……でも、LINEでは……」
「あれは……」
健一は一度、視線を落とした。
「あの時、相手とのやり取りで『結婚式って面倒でしょう』みたいな話になって……俺も、適当に肯定しただけなんだ」
「適当に……?」
「うん」
健一は苦しそうに眉を寄せた。
「相手との話を早く終わらせたくて、深く考えずに合わせただけだった」
「……」
「でも、すみれとの結婚式を面倒だなんて思ってたわけじゃないよ」
健一は、はっきりと言った。
「そんなこと、思うわけないだろ」
「……健一」
「九年間付き合って、一緒に暮らして……ずっと楽しみにしてたんだよ。すみれと結婚することも、家族や松田たち、みんなに祝われながら結婚式を挙げることを」
その言葉に、すみれの胸がきゅっと締めつけられた。
「……じゃあ、どうして?」
小さな声が漏れる。
「どうして、あんなこと……したの?」
健一は答えられなかった。
しばらくして、俯いたまま口を開いた。
「……なんでだろう。俺がバカだったのは間違いないんだ。……他の女性と関係を持つことを軽く考えてしまっていた俺の価値観がズレてたってことだと思う」
「……」
「でも、すみれが悪かったからじゃない。それだけは、絶対に違う」
「……そう。健一は、もう自由だもんね」
「……」
「今はフリーだから、気楽だね」
「……今は仕事だけに集中したいんだ。恋愛は考えられない」
「健一が考えてなくても、女性が放っておかないでしょう? ……これまでもそうだったし」
「……」
「……なに?」
「すみれは……俺のこと、もう嫌いか?」
「……嫌いになれたら、もっと楽だったと思う」
「……そっか」
「私、逃げたんだと思う。日本にいたら、毎日、健一を思い出してしまうから。マンションも、街も、駅も……全部、健一との思い出があって……。だから、全部置いてきたかった」
「……俺は、今でもすみれが好きだ」
「……」
「でも、俺のところに戻ってきてくれとは言えない。……さすがに俺がそんなことを言える立場じゃないことはわかっているから」
「……私も、嫌いになったわけじゃないよ。好きだった人を、三ヶ月で嫌いになるのって難しいよ」
「……すみれ」
「私……まだ、健一のことが好きなのかな」
「……」
「……自分の気持ちが分からない。三ヶ月しか経ってないから、分からないよ」
「……」
「でも……会ったら、やっぱり苦しいね。でも、それと同じくらい……安心した」
「……安心?」
「うん。だって、健一の顔を見たら、逃げ出すか、怒鳴り散らすか、大泣きするか、こんなふうに話せるなんて想像できなかったから」
「……すみれは怒鳴ったりしないだろう? そんな姿、想像もできないよ」
「ふふふ。自分が自分でなくなっちゃうくらい、それほど深く傷ついたのよ」
「……ごめん」
「……許せないかな。まだ、今は」
健一は小さく頷き、しばらく二人の間に沈黙が流れる。
やがて健一が、静かに口を開いた。
「ニュージーランドに行くんだよな」
「うん」
「……旅は……楽しい?」
「うん。少しずつだけど、やっと楽しめるようになったかな。最初は、眠れないし、涙は止まらないし、食欲はないしで最悪だったけど」
「……そっか。俺のせいだな。それで、痩せちゃったんだね」
「まあ、そうね。結婚式のために必死にダイエットしてた当時より簡単に痩せちゃった」
健一は、何かを堪えるように唇を噛んだ。
「……ニュージーランドの後は、どうするの?」
「分からない。まだ、決めたくないの」
すみれが、すっきりした表情で微笑むと、健一も優しく微笑み返した。その瞬間だけ、三ヶ月前までの二人に戻ったような、穏やかな時間が流れた。
食事を終えた二人は、それぞれの搭乗口へと向かうために席を立った。
「じゃあ、俺はそろそろ搭乗開始だから行くけど……。すみれ、俺……InstagramにDM送ってもいい? 返事はしなくていい。ただ、今日あったこととか……日記みたいに送ってもいい?」
「……でも」
「俺、すみれと連絡が取れてるだけで安心するんだ。何かあったらすぐに連絡ちょうだい。心配なだけだから」
「……でも。返事はしないよ。それでもいいの?」
「お願いします。すみれはただ、無視してくれてて構わないから。頼む」
「……うん。じゃあ……いいよ。でも、本当に返事は期待しないでね」
「……ありがとう! 毎日、DMするよ」
「毎日!? 健一……友達いないの? ジャカルタ生活が寂しいの?」
「違うよ! すみれと繋がっているだけで幸せなんだ。だから……ありがとう」
「ふふふ。変なの。それなら浮気なんてしなきゃいいのにね」
「……っ!!」
「……ちょっと、冗談で言ってるんだから、そんなに凹まないでよ。健一らしくないなあ」
「俺だって凹むよ。俺がバカなことして、大事な人を失ったんだから……」
「ふうん。じゃあ、せいぜい凹みなさい。私は深く傷ついているんだから」
「……うん」
「ちょっと。自信家の健一らしくないじゃない。しっかりしなさいよ」
「ははは、懐かしいな。すみれ……俺……」
健一が、真っ直ぐにすみれを見つめる。その表情には切ない熱が宿っていた。
すみれは、そんな健一の次の言葉を遮るように話し出す。
「健一」
「ん?」
「……九年間、ありがとう」
「……」
「本当に、ありがとう」
「……俺のほうこそ。九年間、すみれと一緒にいられて……幸せだった」
健一は、すみれに向かって右手を差し出した。
すみれは、自然に握手を受け入れた。そこに迷いはなかった。
二人の手が、しっかりと重なる。
「……じゃあ」
「……うん」
すみれが手を離そうとした、その瞬間だった。
健一の指が、名残惜しそうにすみれの手を包み込んだ。
「……健一?」
次の瞬間、健一はすみれを強く引き寄せ、そのまま腕の中に抱きしめた。
「……っ」
突然のことに、すみれは息を呑む。
けれど、もう身体を強張らせることはなかった。ただ、健一の胸元に顔を埋めたまま、じっとしていた。
「……ごめん」
耳元で、健一の声が震える。
「本当に……ごめん」
すみれを抱きしめる腕に、わずかに力がこもった。
「あれほど大好きだった職場を……辞めさせてしまって、ごめん。本当に、ごめんなさい」
その言葉に、すみれは何も答えなかった。健一も、それ以上何も言わなかった。
離れたあとも、二人はすぐには何も言えなかった。ただ、目の前にいる相手の顔を、もう一度しっかりと見つめる。
「じゃあ、元気で。……すみれ、俺、本当は」
「健一も元気でね」
すみれは健一の言葉を遮るように微笑んだ。
そして二人は、別々の搭乗口へ向かって歩き出した。
すみれは、もう振り返ることはなかった。
健一は少し歩いてから振り返り、遠ざかっていくすみれの背中を記憶に焼き付けていた。
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