第152話 思いがけない再会
滑走路の向こうには、これから大空へ飛び立とうとする旅客機が何機も列をなしている。健一は、その光景を大きなガラス越しに眺めながら歩いていた。
搭乗までの時間を、のんびりとバー・ラウンジで潰すつもりだった。軽く夕食を済ませて、六時頃になったら出国審査を済ませて搭乗口へ向かえばいい。ただ、それだけのつもりだった。
けれど――。
ふと視線を向けた先に、展望デッキのベンチ横に立つ、見覚えのある後ろ姿があった。
風に揺れる黒髪のポニーテール。すらりとした細い体は、最後に見た記憶の中の彼女よりも少し痩せたような印象だ。
大きなバックパックを足元に置き、ベンチの横に立ち、じっと空を見上げている。
その姿を目にした瞬間、健一の足がぴたりと止まった。
「…………え?」
(すみれ?……いや、まさか。会いたい思いが強すぎて、似ている女性がすみれに見えているんだろうな……俺、未練タラタラだな)
導かれるように、展望デッキへゆっくりと近づいていく。
そして、その女性と距離が縮まるにつれて、想いは確信へと変わっていく。
(すみれ? ああ……本当に!? 本物の……すみれ?)
胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。
まさか。そんなはずはない。
頭ではそう思いながらも、どうしても視線を逸らすことができなかった。
間違えるはずがなかった。
九年間、ずっと見続けてきた愛しい人の姿だった。
「……すみ……れ」
呼びかけようとしたが、喉が引きつって、掠れて声にならない。
その時、すみれの肩が小さく震えていることに気づいた。
顔を伏せ、細い指先で目元を拭う。
泣いている――。
すみれが、泣いている――。
その姿を見た瞬間、健一の胸は締めつけられるように痛んだ。
(どうして? 何があったんだ!?)
思考が追いつく前に、身体が勝手に動いていた。
背後から歩み寄り、そのまま両腕を伸ばす。
そして――。
ぎゅっと、彼女の身体を後ろから抱きしめた。
「……っ!?」
突然、逞しい腕に背後から包み込まれ、すみれは息を呑んだ。
一瞬、全身が凍りつく。
何が起きたのか分からない。けれど次の瞬間、恐怖が背筋を駆け抜けた。
嫌だ! 怖い。逃げなきゃ――。
身を捩り、腕の中から抜け出そうと抗う。
“No! Get off me!”
『……っ、離して――!』
声を上げた、その瞬間だった。
「すみれ……」
耳元で囁かれたその声に、全身の動きがピタリと止まった。
――この声。
聞き間違えるはずがなかった。
九年間、毎日のように聴いていた声。嬉しい時も、楽しい時も、眠りにつく前も。
何度も何度も、自分の名前を愛おしそうに呼んでくれた声。
誰よりも大好きだった人の声。
「……けん……い……ち?」
震える唇から、小さな声が漏れ出た。
「……うん」
背中越しに返ってきた声は、ひどく掠れていた。
「……俺」
その言葉を聞いた瞬間、すみれの目から留めどなく涙が溢れ出した。
どうして。どうして、ここにいるの?
健一はもうジャカルタへ帰ったと思っていた。さっき、飛行機が飛び立つのをこの目で見送ったはずなのに。
香港では、もう会うことはないと思っていたのに……。
「……なんで……っ」
声が激しく震える。
「なんで……いるの……? 三時四十五分の便じゃ……?」
「……違うよ。俺のフライトは、十九時五分だから」
「……えっ?」
すみれは言葉を失った。
背後から回された腕が、力強く私を抱きしめている。
ほんの二ヶ月余り前まで、何度も私を抱きしめてくれた、あたたかくて安心する腕だった。
けれど――その力強い腕が、小刻みに震えていることに気がついた。
「……泣くなよ」
健一の声が、すぐ耳元で小さく震える。
「お前が泣くと、俺は……」
そこで言葉が途切れた。
背中越しに伝わってくる声はくぐもり、呼吸も不規則に乱れている。
すみれを抱きしめる腕は力強いのに、その身体全体が震えていた。
「……健一……泣いてるの?」
「……泣いてない」
「嘘……」
「……」
「声、震えてるよ……」
健一は答えなかった。
ただ、抱きしめる腕にぎゅっと力を込めた。
「……ごめん」
掠れた、絞り出すような声だった。
「……本当に、ごめん……」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥に封じ込めていた感情が一気に突き上げてきた。
「……私……っ」
涙で喉がつまって、声にならない。
「私、香港では……健一には会わないって……決めたのに……」
「うん」
「会ったら……また、辛くて、苦しい、三ヶ月前に戻っちゃうと思って……っ」
「……うん」
「だから……」
言葉を途切れさせながら、すみれは深く息を吸い込んだ。
「……展望デッキから、見送ったのに」
「……俺を?」
「うん。……さっき飛び立った飛行機に、さよならしたの……」
健一が息を呑む気配が伝わってきた。
「……そうだったのか」
「健一が乗ってると思って……」
すみれは前を向いたまま、涙を流しながら切なく笑った。
「……ちゃんと、一人でさよなら言おうと思ったの……」
その言葉を聞いた瞬間、健一の胸が締めつけられた。
すみれは、自分との思い出を終わらせるために、ここにいたのだ。誰にも頼らず、一人で『さよなら』を告げようとしていた。
そう思うと、言葉が出てこなかった。
そのまましばらく、健一はすみれを抱きしめていた。
互いの涙が止まるのを待つように、二人は何も言わなかった。やがて健一は、ゆっくりと腕を解いた。
こうしてお互いの顔を見るのは、三ヶ月ぶりだった。
一緒に暮らしていた頃は、目を覚ませば隣にいて、帰宅する彼を「おかえり」と迎えていた懐かしい顔。
すみれは、涙の跡が残る顔で健一を見つめた。
健一もまた、何も言わずにすみれを見つめていた。
三ヶ月ぶりに見る、愛しい顔。
「……日焼けしたね。それに……痩せた?」
「うん、まあ。旅行中はほとんどメイクしてないから……」
「……そっか」
健一は、すみれの足元に置かれた大きなバックパックへ視線を落とした。
「これから、どこへ行くの?」
「ニュージーランド」
「……ニュージーランド?」
「うん。クライストチャーチ」
「高校のときに留学してた?」
「……うん」
「そっか……」
健一は少し戸惑うように視線を落とし、それからまっすぐにすみれを見つめ直した。
「もし嫌じゃなかったら……晩飯、一緒に食わないか?」
「……え?」
「俺のフライトは十九時五分だから。お互い、時間もあるしさ」
「……」
「最後に……話したい」
最後――その言葉が胸に小さく引っかかった。
けれど、すみれはゆっくりと頷いた。
「……うん」
ハンカチで涙を拭う。
「私も……話したい」
二人は並んで、ゆっくりと展望デッキを後にした。
もう昔のように手を繋ぐことはなかった。
それでも――長い間途切れていた二人の距離は、ほんの少しだけ縮まっていた。
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