第151話 ◇ 香港出張と、会いたかった君
ジャカルタ赴任から二ヶ月が経とうとしていた。
年中蒸し暑い気候や現地の生活にもようやく慣れ、親切な専属運転手のアブドゥルや、有能な現地アシスタントのデヴィ、そして頼れる同僚の富永さんのおかげで、なんとか滞りなく仕事をこなせるようになってきている。
そんな中、今回の香港出張が告げられた。
目的は、自社がジャカルタで推進している大型ショッピングモール開発事業において、共同出資しているパートナー企業『Victoria Asia Holdings ヴィクトリア・アジア・ホールディングス』の本社が香港にあるためだ。
設計変更に伴う追加予算の交渉と、最終契約書への署名――最近ではリモート会議が主流になってはいるものの、巨額の資金が動く繊細な合意形成においては、どうしても直接顔を合わせて握手を交わさなければならない場面があるのだ。
日曜日の夜八時過ぎ、香港国際空港に到着した。
そんな折に決まった、日曜日からの二泊三日の香港出張。
香港国際空港からタクシーに乗り込み、高速道路を滑るように抜けて香港島へと向かった。滞在先は『JW Hong Kong Marriott Hotel 香港JWマリオット・ホテル』だ。
チェックインを済ませ、静かな客室で荷物を解きながら、私はそっとスマホを取り出した。
画面を点けると真っ先に目に飛び込んでくる壁紙は、すみれの浴衣姿だ。
去年、二人で行った有馬温泉で撮ったすみれの浴衣姿だ。なんとも未練がましいが、後ろ姿なら許されるような気がして、ジャカルタに来てからも壁紙を変えられずにいた。露天風呂付きの部屋にはしゃいでいた彼女の姿が、今でも鮮明に思い出される。
ロックを解除し、画面に表示させるのはすみれのInstagramのアカウントだ。彼女の旅の様子を眺めるのが、今の日課だ。
気になったのは、一昨日、金曜日の夜に投稿されていた一枚の写真。
美しい夜景を背景に、手作りだと思われるマスコットのテディベアが写っている画像だった。気になってネットで調べてみると、特徴的な夜景から、香港だと分かった。
(すみれ、今、香港にいるのか……)
まさか、自分と同じタイミングで彼女が香港にいるなんて。
(会えないかな……。いや、会えるわけないか。俺が今香港にいるなんて、すみれに伝わるはずもないしな)
ジャカルタで、ひどい風邪を引いた時の苦い記憶が蘇る。
寂しさに負け、慎二との約束を破って彼女にDMを送ってしまったこと。身勝手な行動ですみれを深く傷つけ、慎二の信頼も裏切ってしまったことを、今もずっと後悔している。
(もう、DMはしない。身勝手に彼女を振り回した俺には、すみれに連絡する権利なんてないんだから)
スマホを伏せ、深く息を吐き出す。
三十階の窓辺から見えるビクトリアハーバーの美しい夜景を眺める。彼女が同じ香港の空の下にいるというだけで、胸の奥が締め付けられるように痛む。
けれど私は静かにスマホを伏せ、翌日からの仕事に集中することにした。
翌日、月曜日。午前中の現場視察から、私の出張スケジュールは本格的に動き出した。
今回の出張の目的は、伝統的な下町の雰囲気も残しつつ、急速に再開発が進んでいる新界西北部に位置する大規模住宅地『元朗 Yuen Long ユンロン』の大型ショッピングモールの建設プロジェクトに関する繊細な交渉だ。
視察先でランチミーティングを行い、午後に一旦ホテルへ戻って本社と協議したあと、夜は現地関係者との会食へ向かう。気を張る時間が続き、すみれのことを考える余裕を打ち消してくれた。
そして火曜日。かねてからの予定通り、午前中に最終契約のサインを取り交わし、関係者とビジネスランチを共にしたところで、今回のビジネストリップの目的はすべて無事に達成された。
ホテルへ戻り、ジャカルタの会社宛てに報告のメールと関連ファイルを送信する。クロークから荷物を受け取った時には、時刻は午後三時を回っていた。
「空港へ向かってくれ」
タクシーの車窓から流れる香港の街並みを眺めながら、私は静かに息を吐いた。
同じ香港のどこかにすみれがいる――そう思いながら過ごした二泊三日。けれど、街中で偶然すれ違うような奇跡が起きるはずもなく、仕事に追われているうちに時間はあっという間に過ぎ去っていった。
午後四時少し前、香港国際空港に到着する。
(まだ時間があるな。飯でも食いながら、ラウンジでのんびり待つか……)
そう思いながら歩いていると、ふと吹き抜けの出発ロビーを見上げた。
(すみれは……笑って旅を続けられているのかな。彼女が笑っていてくれたらいいな)
何の気なしに、そのまま展望デッキへと足が向いた。
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