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【片道切符で異国を旅歩く 〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜】  作者: 恋せよ恋
香港編 美味しい中華料理と、ジュリアの家族

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150/200

第150話 同じ空の下で、あなたを見送る

 香港で過ごす最後の夜。

 夕方、仕事を終えたジュリアとご両親と一緒に、初日の夜に連れて行ってもらったレストラン・太古城の駅近くにある中華料理店へ向かった。


 店内は相変わらず地元の人々で賑わっており、円卓を囲むと、初日の緊張していた自分が嘘のように懐かしく感じられる。次々と運ばれてくる湯気の立った美味しそうな料理を前に、ジュリアのお母さんが優しい笑顔で尋ねてくれた。


“Sumire, did you enjoy your time in Hong Kong?”

『すみれ、香港は楽しめたかしら?』


『はい。食べ物はどれも本当に美味しいですし、交通機関も便利で、すごく楽しく観光できました。なにより、お宅に泊まらせていただいたおかげで、安心して旅ができました」


“I see. I’m glad.”

『そう。よかったわ』


 お父さんも満足そうに頷き、料理を勧めてくれた。


“Take good care of yourself while you’re traveling. If anything happens, be sure to contact Julia, okay?”

『旅先では、体には気をつけるのよ。何かあったら、ジュリアに連絡をちょうだいね』


「ありがとうございます。本当にお世話になりました」


 温かい家族の輪に包まれながら、私は心からの感謝を込めて微笑んだ。


 ◇


 楽しい食事を終えてマンションへ戻ったあと、リビングのソファでジュリアと二人、最後の夜を静かに過ごす。


 馴染みの烏龍茶の湯気が立ち上る中、ジュリアがそっと私を見つめて尋ねてきた。



“So, Sumire, what have you decided to do? Aren’t you going to see your ex-fiancé while you’re in Hong Kong?”

『それで、すみれは、どうすることにしたの? 香港で元婚約者には会わないの?』


「……うん。本当は、まだ、迷ってる。でも、迷うってことは……会うべきじゃないのかなと思って。だから、せめて空港で飛び立つ飛行機を見送るつもりよ」



 私が言葉を選ぶようにして答えると、ジュリアは少し顔をしかめ、熱い口調で言った。


“…Well, it’s up to Sumire to decide. I can’t forgive him. It was only three months ago, wasn’t it? Because of him, Sumire is traveling abroad all by herself. Honestly, just talking about it makes me angry!”

『……まあ、決めるのはすみれだからね。……私は彼を許せないわ。だって、まだ三ヶ月前のことでしょう? 彼のせいで、すみれは一人で海外を旅しているわけでしょう。もう、話してて腹が立ってくるわ!』



 ジュリアはプンプンと怒った振りをして見せたあと、ふと眉を下げて首をひねった。


“Oh, but… I guess I have him to thank for letting me meet Sumire? Hmm… but I still don’t like him!”

『あっ、でも……彼のおかげで、すみれに会えたのかな? うーん、でも、やっぱり私は嫌いよ!』


 彼女の不器用で真っ直ぐな優しさが可笑しくて、愛おしくて、私は思わずクスッと笑ってしまった。


 私の痛みに一緒に怒ってくれる友達が今ここにいることが、何よりも心強かった。


 ◇


 翌朝、火曜日。

 ジュリアのご両親にあらためて滞在中の感謝を伝え、先に出勤するお二人を見送った。その後、いつも通り、出勤するジュリアと一緒にマンションを後にした。


 ジュリアと別れて一人になると、それまでの賑やかさが嘘のように静寂が降りてきた。


 手元にあるのは、午後三時に空港へ向かうまでのほんの数時間。香港での最後の目的地として選んだのは、空港の目と鼻の先にある『大嶼 ランタオ島 Lantau Island』の『昂坪 ゴンピン Ngong Ping』だった。


 MTR『東涌 トンチョン』駅に到着し、駅直結のモールでバッグパックをロッカーに預ける。身軽になった身体でロープウェイ乗り場へと向かい、そのまま空中へと進み出た。


 キャビンがぐんぐんと高度を上げていく。足下に広がるのは、これまで見てきた香港の賑やかな高層ビル群とは対照的な、緑豊かな深い山々と、太陽の光を浴びて煌めく南シナ海だった。


 遠くには霞むように香港・珠海・マカオ大橋がどこまでも伸びている。

 揺れるゴンドラの中で風の音を聞いていると、ジュリアや彼女の両親と過ごした温かな時間が胸の奥に蘇ってきた。


 約二十五分間の空中散歩を終え、澄んだ山の空気が満ちる昂坪市集へと降り立つ。

 白壁と瓦屋根の中国風建築が連なる街並みを抜けると、その先に圧倒的な存在感の青銅の巨像――天壇大仏が視界に飛び込んできた。


 見上げるほどに長い二百六十八段の石段を、ひとつずつ踏みしめるように登っていく。

 息を乱しながら辿り着いた頂上で大仏を見上げると、穏やかな慈愛に満ちた表情が、青空を背にして私を見下ろしていた。


 振り返れば、山間の緑と海が一望できる絶景が広がっている。線香の薫煙が風に乗ってかすかに鼻腔をくすぐり、香港を出国する時刻が刻一刻と近づいていることを静かに告げていた。


 敷地内の宝蓮寺で静かな時の流れに浸り、ランチの精進料理に舌鼓を打った頃には、時計の針は十三時半を回っていた。


 私はスマホを取り出し、日本を出る前に届いていた慎二君からのInstagramのDMをもう一度見返すーー『火曜の午後便でジャカルタに戻るらしいよ』。


 検索したフライトは、『キャセイパシフィック航空 CX719便 香港発 15:45 ➔ ジャカルタ着 19:40』


(きっと、このフライトに乗るんだ……)


 私の搭乗するフライトは、『キャセイパシフィック航空のCX119便。香港発 20:40 ➔ ニュージーランドのクライストチャーチ着 12:50』、約11時間の直行便だ。


(搭乗手続きは18時半頃で十分だけど……15時45分のジャカルタ行きの便を見送るつもりで、早めに空港に向かおう)


 直接会うつもりはない。ただ、同じ空の下で彼が飛び立っていく瞬間を、どこかで見届けたかった。空港ならいくらでも時間は潰せるはずだ。



 再びロープウェイに乗り込み、地上へと戻る。預けていたバッグパックをロッカーから回収すると、そのまま東涌駅のB出口を出てすぐ目の前に広がるバスターミナルへ向かった。


 目指すのは、空港行きの循環バス『S1』系統の乗り場だ。


 ほどなくしてやってきたバスに乗り込み、運賃箱の読み取り機にオクトパスカードをかざす。


 一番前の席に陣取ると、バスはゆっくりと動き出す。

 車窓には先ほどまでいた緑豊かな山並みが遠ざかり、代わりに近代的な高速道路や巨大なエアポートブリッジが迫ってきた。潮風を感じながら揺られること二十分ほど。


 十五時少し過ぎ、バスは静かに香港国際空港のターミナル前に停車した。バッグパックを背負うと、そこは旅の賑わいが広がっていた。


 ◇


 大きなバックパックを地面に下ろし、私は香港国際空港の展望デッキから、滑走路をじっと見つめていた。


 やがて、時刻は15時45分を過ぎる。


 どの飛行機かはわからない。ただ、多くのキャセイパシフィック航空の機体が滑走路を加速し、大空へと飛び立っていく。


(健一……バイバイ)


 順番に、次々と機体が雲の彼方へと小さく消えていくのを見送っていると、目の奥が熱くなり、胸がモヤモヤして、喉がキュッと苦しくなった。


(健一、本当に行っちゃったんだ……)



 会わないと自分で決めたはずだった。

 前を向いて歩き出したはずだった。

 

 それなのに、彼が去ってしまったという現実が突きつけられた瞬間、視界が急激に潤み始めた。


「……っ」


 ポロポロ、ボロボロと、大粒の涙が目から溢れ出してきた。

 一度溢れ出した感情の波は抑えることができず、喉の奥から嗚咽が漏れだす。


 自分でもよくわからない感情の波に飲み込まれていた。


 寂しさなのか、未練なのか、それとも胸を刺すような怒りなのか。


 ただ立ち尽くし、止まらない涙で曇る香港の空を一人で見上げ続けていた。

______________


※作中のフライト情報は、運航情報を参考にしています。

 ちなみに『CX119便』は現在、水・金・日曜日の運航となっているため、作中では物語上の設定として火曜日に運航する便として描いています。


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