第149話 有名観光地と、人の暮らし
※『香港故宮文化博物館』に関しまして、作中の展示内容は、過去に開催された展覧会を参考・引用しています。現在は終了しているエキシビションです。
「この展示を見に行こう!」と思って現地へ向かわないよう、ご注意くださいね!
月曜日の朝、いつも通り仕事へ向かうジュリアと一緒にマンションを出た。
“Sumire, where are you going today?”
『すみれ、今日はどこへ行くの?』
「今日は、『怪獣大廈 モンスターマンション』に行ってみようと思って」
“Oh, that place! It’s very photogenic, but be careful not to disturb the people who live there. A lot of them aren’t particularly welcoming toward tourists.”
『まあ、あそこね! 写真映えするけれど、住んでいる人たちの迷惑にならないように気をつけてね。観光客を歓迎していない人も多いから』
「うん、わかったわ、ありがとう。ジュリア、いってらっしゃい!」
ジュリアと笑顔で別れ、心地よい朝の空気を吸い込みながら歩き出す。
『太古 タイコー』駅から徒歩五分ほど。千九百六十年代から千九百七十年代に建てられたその集合住宅群は、大量の人口流入に対応するため建設された、まさに香港の凄まじい密集度を象徴する建造物として有名だ。
映画『トランスフォーマー/ロストエイジ』の撮影地としても知られ、独特の圧迫感とレトロなノスタルジーがSNSでも絶大な人気を誇っている。
King's Road沿いを進むと、『福昌樓』と書かれた大きな看板が見えてきた。その下にある少し薄暗い小道へと足を踏み入れる。
(本当にここなのかな……)
少し心細くなりながら進んでいると、小道の脇にいたインド系の男性からやたらと視線を送られ、気安く声をかけられた。
“Hello, lady! Where are you going? Want me to take a picture for you?”
『ハロー、レディ! どこ行くの? 写真撮ってあげようか?』
雰囲気に少し不安を覚え、私は軽く会釈だけして速足で通り抜ける。
そのまま暗い通路を抜けると、一気に視界が開けた。
「うわぁ……すごい……」
思わず見上げて息をのむ。
目の前に広がるのは、いくつもの高層住宅が連なり、中庭を取り囲むようにそびえ立つ巨大な壁面だった。無数の窓とカラフルな洗濯物がパッチワークのように壁一面を埋め尽くし、見上げた空が四角く切り取られている。
まだ、朝の九時過ぎということもあり、広場には数組の観光客がいる程度で静かだった。
生活の場にお邪魔しているのだからと、住民の方々の邪魔にならないよう静かに歩みを進める。広場の端にある階段の上に立つと、マンション全体を見渡せる最高のフォトスポットになっていた。
手すりに寄りかかり、切り取られた青空を見上げる。
巨大なビルの谷間で揺れる日常の気配に包まれながら、私はゆっくりと『くまのスミレ』を空にかざし、カメラのシャッターを切った。
◇
『怪獣大廈 モンスターマンション』を後にした私は、『西九龍 ウエストカオルーン』文化地区にある『香港故宮文化博物館』へと向かった。
お目当ては、以前から気になっていた衣装と装飾品に関する特別展だ。
館内に入り、まずはフランスの百年ファッション展『法國百年時尚』のエリアへ足を進める。十八世紀末から二十世紀初頭にかけてのドレスやジュエリーが約四百点も並ぶ空間は、息をのむほど華やかだった。18世紀の豪華な宮廷衣装の繊細な刺繍やレース、美しいシルエットのドレープに思わず目が奪われる。
続いて鑑賞した『絲綢中國 絹織物』のエリアでは、中国の歴史とともに歩んできた絹・シルクの奥深い世界が広がり、極細の絹糸で織り上げられた気品ある仕立ての美しさに胸が熱くなった。
ガラスケース越しに、縫い目や生地の落ち感をじっくりと観察する。
(やっぱり……わたし、服作りに惹かれるな)
洋服の形を生み出し、仕立てるための型紙を起こす仕事。服の構造や仕立てに没頭している時間は、私にとって何物にも代えがたいものだった。
けれど、眩しい展示品を見つめていると、不意に現実的な思考が胸を掠める。
(日本に帰国したら、パタンナーとしての就職活動が待っているんだよね……)
婚約破棄の経緯を知っている人が多い元の職場に戻るのは、さすがに気が重かった。周りの同情や好奇の視線に晒されながら働く自分の姿を想像すると、胸の奥がキュッと狭くなる。
(でも、逃げてばかりじゃダメだよね。今のわたしなら、きっと新しい場所でやり直せるはず)
自分自身の手で仕立て上げた服を着て歩く未来を思い描きながら、私は展示室の静かな光の中で、自分の選ぶべき道をじっと見つめていた。
(……私、いつのまにか帰国したあとの自分のこと、ちゃんと考えられてる)
ふと我に返り、自分自身の変化に驚いた。
日本を出たばかりの頃は、ただ傷ついた現実から逃げることで精一杯だった。それなのに今は、日本に帰ったあとの仕事や、その先の人生について考えている。
その事実が、胸の奥をじんと温めた。
展示室のガラスに映った自分の顔は、香港に来た日よりも、少しだけ晴れやかに見えた。
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