第148話 ジュリアと食べ歩く街、ざわめく心
黄大仙祠を後にして滞在先へ戻ると、仕事を終えたジュリアが笑顔で迎えてくれた。
慎二へは、何も連絡を取らないことにした。
返信もしない。ただ静かにメッセージを閉じ、スマホをバッグの奥に収めた。それが、過去と今の自分に対する私なりの結論だった。
今晩は、ジュリアの両親は予定があるということで、二人だけ近所のフードコートで夕食を済ませたあと、私たちは潮風が心地よい海岸沿いへと散歩に出かけた。
連れてきてもらったのは、海に面した『鰂魚涌公園 クォーリーベイ・パーク』だ。
ヤシの木が揺れる遊歩道では、ジョギングや太極拳を楽しむ地元の人々が行き交う。七月の日没は十九時少し過ぎだが、日が落ちると対岸の眩い夜景がビクトリア・ハーバーの海面に揺らめき始めた。
歩きながら、ジュリアは健一の件については何ひとつ聞いてこなかった。
私が自分の中で答えを出したのだと、表情を見て悟ってくれたのかもしれない。その優しさが、たまらなくありがたかった。
波の音に耳を傾けながら、今後の日程についての話だけを交わす。
『すみれ、火曜にシドニーに向かうの?』
「ええ。数日だけシドニーを観光してから、クライストチャーチへ向かうつもりよ」
『そう。寂しくなるわね』
少ししんみりとしたジュリアの側顔に、私はふっと笑みをこぼした。
『ふふふ。そのうち、東京に帰るから、今度はジュリアが東京に遊びにきてよ』
『ええ! 絶対に遊びに行くわ!』
「あと二日、香港を満喫するわ。明日は、一日中、一緒に楽しみましょう」
ジュリアは「ええ、任せて!」と言うと、一瞬でパッと顔を輝かせ、嬉しそうに私の手を握りしめた。
香港の海から吹き抜ける風が、とても柔らかく感じられた。
誰かに委ねるのではなく、自分自身で選んだ次の目的地は、オーストラリア、そしてニュージーランドへ。
わたしの旅は、これからもしっかりと続いていく。
翌日、日曜日。
この日はジュリアと一緒に、香港の熱気に包まれたローカル街へ買い物と食べ歩きに出かけた。
観光地化されていないローカルな下町の雰囲気が残る『深水埗 サムスイポー』や、賑やかな屋台街が広がる『旺角 モンコック』の街並みを巡る。
通り沿いの屋台からは香ばしい匂いが立ち込め、どこを歩いても食欲をそそられた。
外はカリッと、中はふわもち食感の焼きたての『鶏蛋仔 エッグワッフル』を二人でちぎって頬張り、ぷりぷりの魚のすり身にスパイシーなカレーソースが絡む『咖喱魚蛋 カリーフィッシュボール』の辛さにハアハアと息を吐く。
さらに、つるんとなめらかな米粉生地に特製醤油ダレがかかった『腸粉 チョンファン』や、サクサクのパイ生地にとろけるカスタードが詰まった焼きたての『蛋撻 エッグタルト』まで、気になるB級グルメを堪能した。
「美味しいわね。香港の屋台って、本当に何を食べても最高ね。今日は、ジュリアが一緒だからいろんな物を食べられるわ。一人だと量が多くていろんな種類は試せないもの」
『でしょ? まだまだ美味しいものはたくさんあるわよ!』
食べ歩きを楽しみ、雑多でカラフルな雑貨を選びながら笑い合う時間は、とても温かくただただ楽しかった。
けれど――街の喧騒からふっと意識が離れる瞬間、頭の片隅にはずっと、ある思いが燻っていた。
(……そろそろ、健一が香港に到着する頃だ)
連絡は取らないと決めた。Instagramのアプリを開くこともない。
それでも、今夜には彼が同じ香港にやってきて、同じ夜空を見上げるのだと思うと、胸の奥が少しだけキュッと締め付けられるような感覚があった。
八時過ぎ、『油麻地 ヤウマテイ』の『廟街 テンプルストリート』に夜市の提灯が灯る。眩しいネオンに照らされながら、私はジュリアの隣で笑っていた。
◇
夜市を楽しんだあと、ジュリアと一緒に太古城のマンションへ戻ってきた。
シャワーを浴びてベッドに横になり、私はスマホを手に取った。
健一に連絡を取るつもりはないし、会うつもりだって、もうない。
そう心に決めたはずなのに、暗闇の中で画面をタッチしながら、慎二から届いていたDMを読み返してしまう。
『日曜の夜八時頃の到着便で、香港島のホテルに二泊するって言ってた。月曜は取引先を訪問して、火曜の午後便でジャカルタへ戻るらしいよ。あと、兄貴には、すみれさんのInstagramには絶対にDMしないって約束させたから、心配しないで!』
その言葉を頭に浮かべながら、検索窓に香港からジャカルタへのフライトスケジュールを打ち込んでみた。
指先でスクロールすると、該当するひとつの便が画面に浮かび上がった。
『キャセイパシフィック CX719 香港 15:45 → ジャカルタ 19:40』
(たぶん、この便で帰るのかな……)
青白いスマホの光が、暗闇の中で私の顔を静かに照らす。
火曜日の午後十五時四十五分発。
それは、私がクライストチャーチへ向かうために香港国際空港に向かう日でもあった。私のフライトは、二十時四十分発の夜便だ。
(同じ日の午後に、同じ空港から、私たちはそれぞれの目的地へ旅立つんだな……)
奇妙な運命の悪戯に、胸の奥が少しだけキュッと締め付けられる。
けれど、もう会うつもりはなかった。
スマホの画面を閉じ、そっと胸の上に置く。
目を閉じると、香港の夜が静かに部屋を満たしていった。
(眠れるかな……。ちゃんと眠らなきゃね)
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