第147話 まっすぐ進むべし
ベンチに腰掛け、美しい庭園を眺めながら考えに沈んでいると、いつの間にか時刻は午後二時を回っていた。
(私ってば、どれだけ考え込んでいるのよ。でも、こんなに悩んでも、お腹が減るようにはなったのね)
お腹が少し空いたことにも気づき、重い腰を上げて庭園内を少し散策してみることにした。
青空に映える金色の塔や鮮やかな朱色の橋、美しく剪定された緑の松。配色のバランスがいかにも中国の伝統的な建築様式らしく、どこ切り取っても絵になる美しさだ。
『松茶榭』という趣のある茶室の前に辿り着くと、その手前にある大きな池では、たくさんの色鮮やかな鯉たちが優雅に泳いでいた。その姿をのんびり眺めているうちに、胸の中に残っていた迷いの残滓が少しずつ解けていくのを感じる。
(せっかくだから、近くの有名なお寺にも行ってみようかな)
スマホでマップを確認し、一駅隣にある『黄大仙 黄大仙祠 ウォンタイシン』へと向かうことにした。
一九一五年に黄大仙信仰が香港へ伝わり、一九二一年に現在の九龍・竹園の地に嗇色園黄大仙祠が創建されたという、この道教寺院は、香港でも屈指のパワースポットとして知られている。
境内に足を踏み入れると、線香の香りと大勢の参拝客の熱気に包まれた。
参拝方法がわからず、スマホで調べながら、周囲の参拝者を見よう見まねで本殿へ向かう。お線香は三本が基本だという。線香を手に、周囲の人々に倣って静かに祈りを捧げた。
ここで有名なのが、百本の真っ赤な竹棒が入った筒を使う『カウチム』という伝統的なおみくじだ。やり方はとても独特だ。
まず『恋愛運』や『仕事運』など、願い事をひとつだけに絞って心の中で強く祈る。そして番号が振られた竹棒が入った筒を斜めに傾け、シャカシャカと音を立てながら一本だけが床に落ちるまで振り続けるのだ。
落ちた棒の番号をメモしたら、境内にある占い師ブースへ持っていき、解説してもらう仕組みになっている。日本語が通じるブースもあると書かれてはいた。
(ひとつだけ、問いかけるなら……今は、『将来』よね)
線香の煙が立ち上る境内の中で、私は竹筒を手に取り、静かに目を閉じた。
大勢の参拝客が熱心に祈りを捧げている境内で、私も周囲に倣って静かに祈りを捧げた。
手に持った竹筒は、思いのほかずっしりと重い。
(私が問いかけたいのは……これからの私の進む道について)
誰かの決めたレールや、誰かに依存する生き方ではなく、自分自身の足で歩んでいけるのか。
目を閉じ、心の中で深くその問いを唱えながら、竹筒をゆっくりと前に傾けた。
シャカ、シャカ、シャカ
周囲の喧騒が遠のき、静かな竹の擦れ合う音だけが耳に届く。少しずつ角度を変えながら振り続けていると、筒の縁から一本の竹棒がするりと滑り出し、カタンと音を立てて石畳の上に落ちた。
そっと目を開け、拾い上げる。
刻まれていたのは『八十八』という数字だった。
スマホのメモに『88』と打ち込み、境内の一角に固まっている占い師のブースエリアへと足を向ける。『日本語対応』と書かれた看板のある小さなブース叩くと、穏やかな目元をした年配の女性占い師が「どうぞ」と温かく迎え入れてくれた。
スマホのメモを見せると、女性は手元の古い書籍を開き、眼鏡の奥の目を細めて数字と照らし合わせる。
「……あなたの引いたのは、とても良い卦ですよ」
流暢な日本語で、女性は静かに語り始めた。
「今のあなたは、長い霧の中から抜け出し、自分の道を見つけようとしている最中ですね。過去の未練や、誰かの思い出に縛られる必要はありません。このおみくじは『あなたが自分で選んだ一歩こそが、正しい光へ繋がっている』と告げています」
女性は私の目をまっすぐに見つめ、微笑んだ。
「迷うことはありません。自信を持って、あなたの行きたい方向へ進みなさい」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥につかえていた冷たい塊が、すーっと温かく溶けていくようだった。
「あの! ……最近、別れたばかりの恋人とは、話をするべきでしょうか?」
誰かに縋りたかったのかもしれない。考えるより先に、問いかけが口をついて出た。
「別れた恋人? ……あなたは、その相手の方が今でもお好きですか?」
「えっ!?」
年配の女性から投げかけられた質問に、思わず固まってしまった。
彼女の目を見つめてしばらく考える。……私は、今でも健一が好きなのだろうかと。
「……はい。……たぶん、まだ嫌いになれていないんだと思います」
自分の素直な気持ち。意識しないようにしてきた、本当の気持ちが素直に口から溢れでた。
「もし、気になっているのなら、お相手のことを思い浮かべて竹棒を振ってごらんなさい。どんな結果が出るのか気になっているのではないですか?」
占い師の女性は、私の心の奥底を見透かしたような、温かくも見極めるような瞳で語りかけてきた。
心臓がドクリと跳ねる。
健一のこと。
忘れようとして日本を飛び出したのに、偶然にも明日、香港に彼がやってくるという現実。
(私、まだ……どこかで過去にすがりたがっているのかな)
「……いいえ」
沈黙のあと、私はゆっくりと息を吐き、首を横に振った。
「ありがとうございます。でも、もう大丈夫です」
断る自分の声が、思いのほか凛と響いたことに自分自身で驚いた。
もしもう一度占って、良い結果が出たらやり直したくなるのだろうか。悪い結果が出たら諦めがつくのだろうか。……そうやって、誰かの言葉や占いの結果に自分の人生を委ねるのは、もう終わりにしたい。
私を導いてくれたのは、旅の始まりにシンガポールの観音堂で授かった『出会いに感謝し、まっすぐ進むべし』という言葉。そして、先ほどこの場所で受け取った『自分で選んだ一歩を信じる』というおみくじだ。
相手がどう思うかではなく、私自身がどう生きたいか。
「自分の答えは、もう自分の中で決まっていますから」
そう言って深々と頭を下げると、占い師の女性は嬉しそうに目を細め、「ええ、良い顔になりましたね」と優しく微笑んでくれた。
占いブースを出ると、香港の午後の空はすっきりと晴れ渡って見えた。
私はふと、この旅の始まりだったシンガポールでの出来事を思い出していた。
あの時、ブギスエリアにある『Kwan Im Thong Hood Cho Temple 観音堂』で引いた、有名なおみくじ。
――出会いに感謝し、まっすぐ進むべし。
そして今、香港で受け取った言葉。
――自分で選んだ一歩を信じる。
二つの言葉が、一本の道として繋がったような気がした。
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