第146話 思わぬ提案と、南蓮園池の静寂
観覧車から降り、ジュリアと一緒に太古城のマンションへ帰宅した頃には、夜の十一時を回っていた。
シャワーを浴びてすっかりさっぱりした私は、ベッドの上に身を投げ出し、スマホを取り出す。
かつてナナちゃんに教わった通り、現在地を特定されないよう、旅先で撮った写真はいつも二週間ほど時期をずらしてInstagramに投稿するようにしている。ストーリーズも、旅先ではリアルタイムで上げないようにしていた。
けれど今夜は、レストランで飲んだカヴァの程よい酔いと、香港観覧車から見たあまりの夜景の美しさに、少しだけ気分が高揚して注意力が散漫になっていたのかもしれない。
私はうっかり、先ほど乗った観覧車から見下ろした眩い夜景の動画と、『くまのスミレ』を添えた画像を、リアルタイムでストーリーズにアップロードしてしまったのだ。
「あ……」
投稿ボタンを押した直後にハッと気づいたものの、まあいいかと画面を閉じかけた、その時だった。
画面の上部に、ピコンとDMの通知が跳ねた。
旅先では、知らない相手からのDMを受け取らない設定にしている。
送り主の名前を見て、息が止まる。
――慎二からだった。
『すみれさん、今、香港?』
心臓がどきりと嫌な跳ね方をした。動揺しながら画面をタップすると、さらに続きのメッセージが流れてくる。
『兄貴も香港に出張するんだ。すみれさんがよければ、兄貴に香港にいることを伝えようか?』
(えっ……健一が……香港に……!?)
画面を見つめたまま、指先が固まる。
『大館 タイクン』で歴史的建造物を巡っていたとき、ふと頭をよぎった健一の面影。忘れようとして日本を飛び出したのに、運命の悪戯のように彼の存在が追いかけてくる。
会いたいのか、会いたくないのか。
やり直したいのか、それとも完全に過去として断ち切りたいのか。
自分の本当の気持ちが分からず、胸の奥がぐるぐると渦を巻いた。
時刻はすでに深夜零時近い。つまり、日本時間は深夜の一時近くだ。
ベッドの中で何度も寝返りを打ち、悩み抜いた末、私は震える指で慎二に返信を打った。
「健一さんは、いつまで香港に?」
送信ボタンを押すと、拍子抜けするほどすぐに慎二から返信が届いた。
(慎二君、きっと、気にかけてくれているのね。明日もお仕事だろうに、申し訳ないなわね)
『日曜の夜八時頃の到着便で、香港島のホテルに二泊するって言ってた。月曜は取引先を訪問して、火曜の午後便でジャカルタへ戻るらしいよ。あと、兄貴には、すみれさんのInstagramには絶対にDMしないって約束させたから、心配しないで!』
スマホの画面に表示されたカレンダーを確認する。
今日は、金曜日。
明後日、健一が仕事で香港に来る。
狭い部屋の中、スマホの画面から漏れる青白い光が、私をじっと照らしていた。
◇
なかなか寝付けず、朝方になってやっと浅い眠りについた。
結局、私は、慎二君からの「香港にいることを伝えようか?」という問いかけに、返事をすることができないでいた。
よほどひどい顔をしていたのか、朝食の席でジュリアに驚かれた。
“Sumire, what’s wrong!? You look really tired. Are you okay? Couldn’t you sleep?”
『すみれ、どうしたの!? ひどく疲れた顔をしてるけど大丈夫? 眠れなかったの?』
「……ええ、ちょっと。でも、大丈夫よ。心配しないで」
“No, I don’t believe you. Something happened, didn’t it? We’ve only been together for three days, but I’ve been with you this whole time. You’re nothing like the happy Sumire I saw last night. I may not be able to help, but I can listen. What happened?”
『うそ。何かあったんでしょう? 三日しか一緒にいないけど、ずっと一緒に過ごしてきたでしょう? 昨夜の楽しそうなすみれとは別人よ。力にはなれないかもしれないけど、話なら聞けるわよ。何があったの?』
ジュリアの優しい問いかけに、私は迷いながらも健一の香港滞在について話して聞かせた。
“Oh my! What an incredible coincidence… So, what do you want to do, Sumire? Do you want to see him? Or do you not want to see him anymore?”
『まあ! そんな偶然があるのね……。それで、すみれはどうしたいの? 会いたい? それとも、もう会いたくない?』
私は、昨夜からずっと胸の中で渦巻いていた悩みをジュリアに打ち明けた。
「会うべきかもしれない……。でも、まだ、会いたくない気もするの。急に、会える状況になって、正直、戸惑ってる」
“Yeah. I think I understand. It’s not a chance you chose to have at a time you were ready for—it just came out of nowhere. That makes it hard, doesn’t it?”
『うん。わかる気がするわ。自分で決めたタイミングじゃなく、不意に与えられたチャンスだもんね。難しいわね』
ジュリアは、一度言葉を切ってから、私を気遣うように続けた。
“In the end, it’s your decision, Sumire. You don’t have to see him if you don’t want to, and if you’re unsure, you can always choose not to. Even if it’s not now, I’m sure there will be another chance to see him someday.”
『結局、決めるのはすみれ、あなたよ。無理に会う必要もないし、すみれが迷うならやめればいいわ。今じゃなくても、いつか会えるチャンスがあるはずよ』
そう言って優しく微笑むジュリアは、ふと壁の時計を見て慌てて出勤の準備を始めた。
一人で悩み続けるのはやめにして、私はスマホを取り出した。
(今日はあちこち観光するというより、静かな場所でゆったり心を休めたいな……)
ネットの検索窓に『香港 静かな場所 休める 無料』と打ち込んでみる。
画面のトップに表示されたのは、『Nan Lian Garden 南蓮園池』という中国伝統様式の美しい庭園だった。
入園料は無料。都会の喧騒から離れて静かに過ごせる絶好のヒーリングスポットらしく、開園時間は朝の七時から夜の二十一時までのようだ。
「ジュリア、私、今日はここに行ってみるね」
“Oh, Nan Lian Garden? It’s such a beautiful, peaceful place! Then let’s walk together for part of the way.”
『まあ、南蓮園池? すごく綺麗で静かな良い場所よ! じゃあ、途中まで一緒に行きましょう』
出勤準備を終えたジュリアと一緒に、私は太古城の部屋を出た。
朝の爽やかな光が差し込む街を二人で並んで歩きながら、地下鉄の駅へと向かう。
都会の忙しない通勤風景のなか、ジュリアと交わす何気ない言葉が、昨夜から強張っていた私の心を少しずつ解きほぐしていった。
中環駅でジュリアと別れた私は、そこからMTRを二度乗り継ぎ、九龍側にある『鑽石山 Diamond Hill ダイヤモンドヒル』駅で降りた。
車内の賑やかな広東語のアナウンスを聞きながら電車に揺られているうちに、私の心も少しずつ落ち着きを取り戻していった。
駅から地上へ出ると、『Nan Lian Garden 南蓮園池』の案内板に従い五分ほど歩く。近代的なショッピングモールや高層ビルが立ち並ぶ街並みの一角に、突如として緑豊かな庭園が現れた。
門をくぐると、そこには都会の喧騒が嘘のような静寂が広がっていた。
唐代の建築様式を再現したという庭園内は、美しく剪定された松の木や、丁寧に配置された巨石、そして滑らかに水面を揺らす池が広がっている。
青空に向かってまっすぐに伸びるビル群を背景に、池の中央に浮かぶ朱色の八角堂『円満閣』と金色の屋根が、朝の光を受けて眩しく輝いていた。
「綺麗……」
そよ風が池の水面を撫で、木々の葉を揺らす音が心地よく耳に届く。
池のほとりにあるベンチに腰を下ろした。
優雅に泳ぐ錦鯉の姿や、美しい緑の風景をただぼんやりと眺めていると、胸の奥に溜まっていた迷いや固まった感情が、静かに澄み切っていくような気がした。
(どうすればいいのかな……。健一が、香港に来る。私は、どうしたいの。会うべきか。このままか)
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




