第15話 ◇ 両家の両親
千葉の小川家に一通の簡易書留が届いたのは、すみれがシンガポールの湿った空気に包まれ始めた頃だった。便箋数枚に綴られていたのは、あまりにも残酷な真実と、娘が独りで背負い続けていた絶望の記録。
「……すまなかった、すみれ」
読み終えた父は、ゆっくりと眼鏡を外すと、深い暗闇を覗き込むようにして静かに目を閉じた。
大手建設会社に勤める健一を、一点の曇りもない「理想の婿」だと信じ込んでいた。彼と酒を酌み交わす未来を疑わず、その日を心待ちにしていた自分。けれど、そんな自分たちの無邪気な期待こそが、娘の退路を断ち、彼女を九年という長い歳月、目に見えない檻の中に閉じ込めていたのだ。
「……男を見る目がなかったのは、すみれじゃない。私の方だったんだな」
震える声で漏れたのは、娘への謝罪と、自身の浅はかさに対する激しい後悔だった。娘が絶望の淵に立たされていたとき、自分たちは「安定した結婚」という古びた価値観の重石を、彼女の肩に乗せ続けていたのだ。
一方で、母は手紙を抱きしめるようにして、静かに呟いた。
「あの子、自分を取り戻すための旅に出たのね。よかった……本当によかった」
母だけは、気づいていた。
帰省するたびに見せる、娘の「幸せ」という仮面を。健一の好みに合わせた服、彼のために整えられた髪。一見美しく装われてはいるけれど、その横顔はいつも、遠い場所にある自分の心を必死に繋ぎ止めているようで、寂しげだった。
母は、主のいなくなったすみれの部屋の窓を、精一杯大きく開けた。
澱んでいた古い空気が、千葉の五月の風に押し出されていく。
『私は、私の今を選択します』
手紙の最後にあったその言葉は、初めて娘が自分を愛そうとした証拠だ。母は、いつか娘が「本当の自分」として帰ってきた時、この部屋が一番心地よい風で満たされているように、毎日窓を開け続けることを誓った。
対照的に、健一の実家、佐藤家のリビングには悲鳴に近い声が響いていた。
「なんてことをしてくれたの、あの子は!」
健一の母が握りしめた簡易書留に同封された便箋には、無惨な皺が刻まれていく。彼女にとってすみれは、「優秀な長男の妻」という肩書きで佐藤家を彩るための、従順な嫁に過ぎなかった。
その怒りの矛先は、不貞を働いた息子ではなく、一方的に「手紙」という手段で全てを終わらせた、身勝手で不義理な『息子の婚約者』へと向けられていた。
三週間後に迫った、都内のガーデン付き式場での挙式。すでに発送を終えた、賓客への招待状。親戚一同への言い訳のつかない不祥事。
彼女が案じたのは、九年間の愛を裏切られた女性の孤独などでは決してなかった。自分が人生をかけて磨き上げてきた「理想的な家族」という虚飾の舞台が、音を立てて崩れ去る恐怖だけが、その胸を支配していた。
実際、金銭的な実損も無視できなかった。健一とすみれが積み立ててきた結婚資金だけでなく、佐藤家の両親もまた、長男の門出への「祝儀」として相応の額を拠出していたからだ。
総額四百万円の挙式プラン。一ヶ月前というタイミングでのキャンセルは、規約通り五十%のキャンセル料が発生する。それに加え、既に発注済みの特注衣装や印刷物といった「実費」が容赦なく積み上がっていく。
一瞬にして消えていく、ニ百数十万円単位の金。その数字が確定するたび、健一の母は自分の顔に泥を塗られたような屈辱と、一円の利益も生まなかった「投資」への浅ましい後悔に、唇を噛み締めるのだった。
『皆様が期待してくださった「佐藤家の嫁」という役割を、最後まで全うできず申し訳ありません』
すみれの手紙にあるその皮肉に満ちた一文を、義母が真に理解することはなかった。彼らにとってすみれは、替えのきかない人間ではなく、佐藤家という型に収まるべき「パーツ」に過ぎなかったのだ。
豪華な調度品に囲まれたリビングは、今はただ、重苦しい沈黙が支配している。
棚の片隅には、すみれがかつて贈った繊細なガラス細工が、場違いなほど穏やかな陽光を浴びて置かれたままだった。
これまでは「両家の縁」を繋ぐ象徴に見えていたその輝きも、今となっては、自分たちのプライドを傷つけた裏切り者の残像にしか見えない。
すみれが去ったことで残されたのは、やり場のない憤りと、誰からも羨まれない空っぽの日常だけだった。
彼女が《《撤退》》したのは、不実な恋人の元からだけではない。
「誰かのための道具」として消費され、心を殺して役割を演じる、その歪んだ価値観の柵からも、彼女は鮮やかに、そして永遠に駆け抜けたのだ。
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