第14話 九年間の「正体」と、おめでたい女
シンガポールの夜は、どこまでも湿度が高く、重い。
ホテルの狭い共有スペースで、私はリリーと別れた後も、しばらく一人で冷めきったコーヒーのカップを見つめていた。
リリーが去った後のソファは、彼女が纏っていた爽やかなシトラスの香りが微かに残っていて、それが余計に、私の胸の奥に溜まった未練を浮き彫りにさせた。
私は、自分の九年間を解体するように、過去を一つひとつ手繰り寄せてみる。
健一との九年間。それは私にとって、自分の人生のすべてを注ぎ込んだ「物語」のようなものだった。けれど、その土台がそもそも、脆い砂上の城だったことに、ようやく気づかされたのだ。
『俺のことはすみれが一番よくわかってる。俺に似合う衣装をカッコよく選んでくれたら、それでいいよ。全部任せるよ』
結婚準備の中、彼はいつも眩しい笑顔でそう言っていた。
その言葉を、当時の私は自分への絶対的な信頼なのだと、彼の深い優しさなのだと履き違えていた。パタンナーとして培った私の審美眼を、彼が認めてくれているのだと誇らしくさえ思っていたのだ。
自分の思う通りに、私好みの「完璧な彼」を仕立て上げさせてくれる。そんな彼を「懐が深い人」だと思い込み、私はただ、用意された舞台の上で、幸せな花嫁を演じて浮かれていただけだった。
けれど、魔法が解けた今なら、残酷なほどにはっきりとわかる。
結局、彼は自分の人生にさえ責任を持つのが面倒だっただけなのだ。
決めることから逃げ、向き合うことから逃げ、ただ「心地よい現状」に居座り続けていただけ。
私のパタンナーとしての技術も、彼を想う情熱も、すべては彼の「都合のいい生活」を鮮やかに、そして安価に彩るための、ただの小道具に過ぎなかった。
仕事から帰れば掃除の行き届いた部屋があり、クローゼットには自分の魅力を最大限に引き出すセミオーダーのスーツが整えられ、冷蔵庫には好物のビールと冷菜が並んでいる。
彼は、私が苦労して引いた「人生の型紙」に、ただ乗車していただけ。
「本当に、おめでたい女……」
自嘲気味な呟きが、静かな共有スペースに落ちた。
パタンナーとして、生地の僅かな歪みも許さない私が、自分の人生の決定的な「ズレ」には九年も気づかなかったなんて。
ふと、胸の中に一つの疑問が湧き上がる。
最後に、彼からまともな言葉を掛けられたのは、いつだっただろうか。
「私、健一に『好き』って言われたこと……最後はいつだったかな」
記憶を遡ってみるけれど、出てくるのは「ありがとう、助かるよ」とか「お前が選ぶなら間違いないよ」という、私の「奉仕」に対する称賛ばかりだった。
きっかけは、大学時代の彼からの告白だったはずだ。
『山を下りてからも、ずっと一緒にいてほしい』
あの時、彼は確かに私を見ていた。けれど、いつの間にか私だけが、必死に彼の背中を追いかけるようになっていた。
彼が私の横に並んでいると錯覚していたけれど、本当は彼は、私が必死に整えたレールの上を、ただ無表情に歩いていただけなのかもしれない。
「惚れた方の負け、か。……私、九年もかけて、完敗してたのね」
九年。
二十歳から二十九歳。
女性として、一人の人間として、最も瑞々しく、迷い、成長するはずだった時間を、私は彼という空虚な器を飾るためだけに費やした。
でも、不思議と。
そう呟く私の指先は、もう震えていなかった。
「完敗」を認めた瞬間、私の心に、これまでにない冷徹なまでの静寂が訪れた。
負けたのだ。完膚なきまでに。ならば、もうこの勝負の場に留まる必要はない。
私は、手元にあったスマートフォンの画面を点灯させた。リリーが教えてくれた、マレーシアへと続く一本の線。
健一がいない。
健一のためのネクタイを選ばなくていい。
健一の帰宅を気にしながら、家事をしなくていい。
そんな「何もない」今の状態が、初めて解放として感じられた。
二十九歳の誕生日を目前に控え、すみれの人生の前提は、ほぼ完成していたはずだった。九年という月日は、もはや単なる交際期間ではない。それは彼女の「自己認識」そのものだった。健一を信じている自分、彼と家庭を築く自分、そして彼に選ばれた自分。
それが浮気というたった一つの事実で、足元から音を立てて崩れ落ちた。
彼との関係が壊れただけではない。彼を信じ、九年も費やしてきた「自分の判断力」までが、根底から否定されたのだ。自分は、人生で最も大切な選択を、九年もの間、間違え続けていたのではないか。
そう思うと、冷静に「話し合う」ための余力など、一滴も残っていなかった。
本来なら、健一と向き合い、事実を問い詰め、謝罪をさせ、納得のいくまで罵倒すべきだったのかもしれない。けれど、すみれはそれを選ばなかった。
対峙すれば、必ず感情的に崩れてしまう。あるいは、彼の巧みな弁明に、また自分を誤魔化してしまうかもしれない。これ以上、自分を傷つけるリスクを冒すわけにはいかなかった。
何も言わずに去ること。それは、逃避であると同時に、彼女が握った「最後の主導権」だった。
説明も、弁明も、謝罪も受け付けない。彼がどんなに言葉を尽くしても届かない場所へ、一方的に関係を断絶して移行する。それは、九年間、無意識のうちに彼に合わせてきた自分が行う、最大かつ唯一の反逆だった。
自分の人生という、もっとも複雑で、もっとも自由な布地を切り出すのは、他の誰でもない私自身なのだ。
そして、何よりも彼女を動かしたのは、「説明する気力がない」という、シンプルな虚無感だった。
裏切られた直後、人は怒る前に、深い、深い沈黙の中に沈む。なぜ、どうして、と問いかけることすら消耗に感じられる。
本当は、一言だけ言いたかった。
「私の九年を、返してよ」
けれど、それを言ったところで、失われた時間は戻らない。
今の彼女は、傷ついた自分をシェルターのような孤独の中に隠しながら、過去という古い皮膚を脱ぎ捨てようとしている。
異国の風が、遅れてやってくる怒りや悲しみを少しずつ運び去ってくれるのを待ちながら。
「おめでたい女」でいた時間は、あの日で終わり。
私は最後の一口、冷え切ったコーヒーを流し込んだ。苦味が喉を通り過ぎる感覚。それは、新しい人生を始めるための、ささやかな祝杯のようでもあった。
翌朝、私は一番にリリーを探そうと思う。
そして、あの国境を越えるバスのチケットを、自分の意志で、自分のためだけに予約するのだ。
シンガポールの湿った夜風が、少しだけ、軽やかになった気がした。
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