第13話 リリーとの出会いの日
次にどこへ向かうべきか。
私はホテルの共有スペースの片隅で、無料の薄いコーヒーをいただきながら、スマートフォンの画面を睨みつけていた。
シンガポールの地図、周辺諸国の入国条件、残高の心許ない銀行口座。
指先で地図を広げたり閉じたりしてみるけれど、目的地を失った私の心は、WEB上を彷徨うばかりだ。
「May I ask where you're from?
(どこ出身か聞いてもいい?)」
ふいに頭上から降ってきた穏やかな声に顔を上げると、向かいのソファに座っていた女性が、こちらを見て微笑んでいた。
「あっ、ええ……日本です」
「Ah, I knew it! I had a feeling you might be Japanese. I went to Japan for work about two years ago.
(あ、やっぱり! 日本人じゃないかなって思ってたの。私、二年前に、仕事で日本に行ったことがあるのよ) 」
「そうですか。どちらに行かれたんですか?」
「I’ve been to Tokyo. It was busy, but I really enjoyed it. Someday, I’d like to visit more atmospheric cities like Kyoto and Osaka.
(東京よ。忙しかったけれど、とても楽しかったわ。いつか、京都や大阪のような情緒のある街にも行ってみたいと思っているの) 」
彼女は、リリーと名乗った。
マレーシアの首都、Kuala Lumpur クアラルンプールから三日間だけ一人で遊びに来ているのだという。
都会的でありながら、どこかゆったりとした余裕を感じさせる彼女の立ち振る舞いに、私は知らず知らずのうちに背中の力を抜いていた。
「クアラルンプール……素敵なところでしょうね」
「Yes, it’s a big city, but it’s very livable, with many different cultures and ethnicities blending together. If you’re interested, you should come visit sometime.
(ええ。大都市だけど、多民族が混ざり合っていて住みやすい街よ。もし興味があるなら、一度遊びに来てみたら?)」
「行ってみたいです……。本当に行こう、かな」
自分でも驚くほど、その言葉は自然に口をついて出た。
日本からシンガポールへ。そして次は、さらに北へ。「予定や計画」という、かつての私が最も大切にしていた型紙を、今の私は持ち合わせていない。
「Really? I’m actually planning to head back on a highway bus the day after tomorrow. If you don’t mind, would you like to travel together? Solo travel is nice and free, but it can get a bit boring during the journey without someone to talk to, right? I think it might feel more comfortable for both of us if we go together.
(本当に? 私は明後日、高速バスで戻る予定なの。もしよかったら、一緒に移動しない? 一人旅は自由でいいけれど、移動中だけは話し相手がいないと退屈でしょう? 二人の方がきっと気楽よ)」
「えっ。あ、でも……まだ、きちんと予定を立てていなくて」
「It’s okay. I’m not going to force you. We still have the whole day tomorrow, so if you feel like heading to Kuala Lumpur, just let me know. After all, we’re staying at the same place, aren’t we?
(いいのよ。無理強いはしないわ。まだ明日も一日あるし、もしクアラルンプールに向かう気になったら声をかけてちょうだい。どうせ私たち、同じホテルにいるんだもの)」
リリーはそう言って、悪戯っぽく肩をすくめた。
「Oh, I just realized I never asked your name. I’m Lily. What’s your name?
(名前を聞いてなかったわ。私はリリーよ。あなたは?)」
「私は、すみれです。花のスミレです。リリー、あなたは百合ですね」
自分の名前を口にしたのは、シンガポールに来てから二度目だ。
「So your name is Sumire. It was really nice talking to you. Let’s both enjoy the rest of our time in Singapore.
(スミレね。話せて良かったわ。お互い、残りのシンガポールを楽しみましょう)」
彼女が去った後、私はもう一度スマートフォンに目を落とした。
画面に映る地図。シンガポールから陸路で国境を越え、マレーシアへと続く細い一本の線。
かつての私なら、バスの安全性や現地の治安を隅々まで調べ上げ、完璧なタイムスケジュールを組むまで動かなかっただろう。けれど、今の私を突き動かしているのは、もっとシンプルで、直感的な衝動だった。
――知らない場所へ行きたい。
自分を誰も知らない場所へ行けば、私はもっと、私だけの形を取り戻せるのかもしれない。
私は、冷めきったコーヒーを飲み干すと、リリーの言っていた「クアラルンプール行き」のバスチケットを検索し始めた。
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