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【片道切符で意国を旅歩く 】〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜  作者: 恋せよ恋
シンガポール編 かつての卒業旅行の思い出の地

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第12話 寺院の結婚式と、手向の小さな花

 じっとしていると、意識が過去の想い出に沈んでいく。それを避けるように、貴重品だけを持って私は外へ出た。マップでの検索結果、「Little Indiaリトル・インディア」へ向かうには、バスか地下鉄の選択肢があるらしい。近そうだし、わかりやすさで地下鉄を選択する。どうも、そのエリアを「Brickfields ブリックフィールズ」と呼ぶらしい。


 地上に出た瞬間、強烈なスパイスの香りと、極彩色の花飾りが視界に飛び込んできた。スピーカーから流れる陽気なインド音楽が、熱気を含んだ空気を振動させている。

 人混みの中をあてもなく歩き、たどり着いたのは、高く積み上げられた神々の彫刻が圧巻の「Sri Veeramakaliamman Temple スリ・ヴィラマカリアマン寺院」。


 カーリー女神を祀る、リトル・インディアでもっとも有名な観光スポットの寺院。暴力と殺戮を好む戦いの女神カーリーは、全ての悪を滅ぼし善を守る強さをもった神だという。門には神々の彫刻が施され、圧倒的な存在感を示している。


 入り口で靴を脱ぎ、裸足で冷たい石床を踏みしめる。

 すると、寺院の奥から華やかな楽器の音が響いてきた。導かれるように進んだ先で目に飛び込んできたのは、鮮やかな赤い衣装を身にまとった新郎新婦と、大勢の親族たち。

 偶然にも、そこではヒンドゥー教の結婚式が行われていた。


「……結婚式」


 心臓がどくり、と跳ねた。

 逃げ出そうとした私の背中に、寺院の関係者らしい年配の男性が優しく声をかけた。


「Come on in, have a seat, and watch the wedding. The more blessings they have, the happier they’ll be.

(中へ入って、座って見なさい。祝福は多いほうがいいからね) 」


 断る間もなく促され、私は柱の隅に小さくなって腰を下ろした。

 香炉から立ち上る煙、新郎新婦の首にかけられた大きな花輪。親族たちの賑やかな笑い声と、神聖な祈りの儀式。

 日本での、あの格式張った、完璧にスケジューリングされていたはずの自分の結婚式とは、何もかもが違っていた。


「本当なら、あと二週間で……」


 声に出した瞬間、視界が急激に歪んだ。

 あと二週間あれば、私は真っ白なウェディングドレスを着て、祝福の拍手の中にいたはずだった。

 パタンナーとして、自分のドレスの細部にまでこだわり、最高の自分を演出するはずだった。

 あんなに必死にダイエットをして、あんなに幸せを信じていたのに。なぜ、私はここに一人で、裸足で、他人の幸せを眺めているんだろう。


 抑えていた感情が、熱い涙となって頬を伝った。

 一度溢れ出した涙は止まらず、私は膝を抱えて、声を殺して泣いた。健一への怒りでもなく、裏切りへの恨みでもなく、ただ、自分の積み上げてきた九年間の結末が、あまりに虚しくて、悲しかった。


 異国の寺院で、ひとり膝を抱えて泣いている今の私を見たら、あの頃の私は一体どんな顔をするだろう。



 その時。

 膝を抱え、顔を埋めていた私の視界の前方で、何かが小さく動いた。

 はっとして、濡れた睫毛を震わせながら顔を上げると、そこには目も覚めるような鮮やかな青いサリーを纏った、小さな女の子が立っていた。

 

 しゃがみ込んで泣いている私と同じくらいの高さに、彼女の丸い瞳がある。女の子は、驚かさないようにと気遣うような、おずおずとした手つきで、一輪の蘭の花を私の膝の上にそっと置いた。

 

「……あ」


 女の子は言葉を交わす代わりに、はにかむような純粋な微笑みを浮かべた。

 その花は、新郎新婦へ手向けられるはずのものだったのかもしれない。あるいは、彼女にとっての大切な宝物だったのかもしれない。


「サンキュー……」


 私は声を震わせながら、その小さな手に感謝を伝えた。

 女の子が母親の元へ駆けていくのを見送り、私は手のひらの中の蘭を見つめた。シンガポールの熱気の中で誇らしげに咲く、生命力に満ちた花。

 私は、自分のために用意していたハンカチで、丁寧に、何度も涙を拭った。そして、顔を上げた。

 

 目の前では、新郎新婦が親族に囲まれ、新しい人生の一歩を祝福されていた。

 私とは縁もゆかりもない、名前も知らない二人。明日には、また別の場所ですれ違っても気づかないであろう他人。


(……おめでとうございます。どうか、お幸せに)


 私は心の中で、精一杯の祝福を送った。

 それは、健一への執着や、果たされなかった自分の結婚式への未練を、この熱帯の風に乗せて放流する儀式のようでもあった。


 蘭の花を大切にバッグにしまい、私は立ち上がった。

 寺院の外へ出ると、太陽はさらに高く昇り、リトル・インディアの街を容赦なく照らし出していた。


 頬を撫でる風は、まだ重く熱い。

 けれど、泣き晴らした後の瞳に映る世界は、不思議と一点の曇りもなく、澄み渡っていた。


 私は、もう、自分を切り刻むような真似はしない。

 寺院を後にする私の足取りは、シンガポールに来てから一番、軽やかだった。



 賑やかな商店や、極彩色のサリーを纏った女性たちが闊歩する街並みを眺めながら、私はリトル・インディアにある『Sri Kortumalai Pillayar Restaurant』へと足を踏み入れた。お目当ては、南インドの伝統的なスタイルで供される「バナナリーフカレー」だ。


 SNSで予習した通り、まずは皿の上に敷かれたバナナリーフへ、自分でご飯とおかずを少量ずつ盛り付けていく。席に着くと、店員さんが「パパダム」と呼ばれるパリパリの薄揚げせんべいを運んできてくれた。その場でお会計を済ませるシステムも、どこか合理的で心地いい。


 今の私にとって、食べたいものを少しずつ選べるこのスタイルは、何よりの救いだった。異国の定食はどれもボリュームがあり、残してしまう罪悪感に胸を痛めることが多かったからだ。自分の「食べられる分だけ」を盛り、お財布にも優しい。

 これなら、無理なく一歩ずつ、日常に戻っていけそうな気がした。


 一口、食べると、ココナッツの芳醇な風味と、突き抜けるようなスパイスの刺激が舌の上で弾けた。


「おいしい……。ちゃんと、おいしい」


 喉の奥が震え、思わず涙が滲む。浮気発覚以来、砂を噛むようだった私の味覚が、異国のスパイスによって強引に叩き起こされたようだった。混み合う店の片隅で、泣きながらカレーを頬張る一人ぼっちの東洋系の女。さぞかし奇妙な光景だろう。けれど、止まらない涙は、私の心がようやく「生」を感じ始めた証だった。


 ふと、健一のことを思い出す。彼はエスニック料理が苦手で、辛いものを避けていた。九年間、私は彼に合わせて、自分の「好き」を心の奥に仕舞い込んできたのだ。色々な皿をシェアして笑い合う。そんなささやかな願いさえ、彼との食卓では叶わなかった。


 泣きながら、私は少しだけ笑った。

 自由になるということは、自分の食べたいものを、自分の意志で選べるということなのだ。

 心も胃袋も熱い刺激で満たされ、私は心地よい疲労感と共に、温かなリリーの家へと帰路についた。


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