第11話 過去の献身と後悔
ジュリアが香港へと発った後、ホテルの共有スペースには、彼女がいた場所だけぽっかりと空白ができたような、妙な静けさが漂っていた。
深夜まで絶え間なく動いていた彼女の指先と、彼女の明るい話し声。それらが消えた代わりに、今の私の耳に届くのは、古びた換気扇が回る不規則で無機質なノイズだけだった。
シンガポール滞在、四泊目の朝。
予定では、宿の洗濯機が直っているはずだった。けれど、貼り出された「OUT OF ORDER(故障中)」の紙は無情にもそのまま。フロントのスタッフに尋ねても、「明日には直ると思うけど、ここはシンガポールだからね」と肩をすくめられるだけだった。
仕方なく、私は洗面台に水を溜めた。日本から持ってきた数少ない着替えを、手洗いで洗濯する。私の手が、今はひどく頼りなく、水に濡れたシャツの重みにさえ負けそうになる。
固く絞ったシャツをドミトリー内の狭い物干しスペースに広げながら、私はぼんやりと自分の人生を整理していた。
九年間の歳月。私は、好きだったパタンナーの仕事に心血を注ぎながら、同時に「健一のための私」であることにも一生懸命だった。
アパレルに携わる者として、私は健一という「素材」を誰よりも美しく引き立てることに喜びを感じていたのだ。
整った顔立ちに、緩くかかった黒髪のニュアンスパーマ。少し日に焼けた健康的な肌と、柔らかなブラウンの瞳。彼には、オリーブグリーンやテラコッタといった温かみのあるアースカラーが、驚くほどよく似合った。
「健一、今日のタイはボルドーにしましょう。チーフも色を合わせて」
大人の余裕を演出するために、私が選んだのは落ち着いた暖色の組み合わせ。スーツだって既製品ではなく、KASHIYAMAで仕立てたパターンオーダースーツを着用していた。
鏡の前で完璧に仕上がった彼を見て、私は自分が彼の一部として貢献できていることに、深い自己満足を覚えていたのだ。今にして思えば、外で他の女に会うための「装飾」をせっせと手伝っていたようなもの。反吐が出るほど、アホらしい。
以前は、休みを合わせて週末に温泉へ出かけたりもしていた。けれど、一年前から始まった彼のマンションでの同棲生活は、私の献身をただの「無料の家事サービス」へと変えていった。
最初は分担していたはずの家事は、いつの間にかすべて私の担当になった。
「急な出張が入ったんだ」
そんな理由で彼はたびたび家を空けた。短期の出張。それも、今となってはどこまでが真実だったのか怪しいものだ。
結婚式の打ち合わせにしてもそうだ。彼は細かい決め事には一切関心を示さず、いつもあの魅力的な笑顔でこう言った。
『俺のことはすみれが一番よくわかってるだろう。俺に似合う衣装を選んでくれたら、それでいいよ。全部任せるよ』
その言葉を、私は自分への信頼、彼の優しさだと履き違えていた。自分の思う通りにさせてくれる彼に、私はただ浮かれていただけ。
結局、彼は自分の人生にさえ責任を持つのが面倒だっただけなのだ。
私のパタンナーとしての技術も、彼を想う情熱も、すべては彼の「都合のいい生活」を彩るための小道具に過ぎなかった。本当に、おめでたい女だった。
「私、健一に『好き』って言われたこと、あったかなあ……」
自嘲気味な呟きが漏れた。
告白してくれたのは健一からで、付き合い出してからは、私が追いかけていた気がする。『惚れた方の負け』って、本当だ。
私は、健一にとって『都合のいい女』になっていたのかな。彼との交際を維持するために、いろいろな感情を飲み込んでいた気がした。
でも、今、自分で洗って、自分で干したこの湿ったシャツは、重くて冷たいけれど、間違いなく「私だけの生活」の匂いがした。
私の英語力は、高校二年の時にニュージーランドの南島クライストチャーチへ一年間交換留学した時が人生のピークだったと思う。
当時は勢いで英検二級まで取得したが、その後進学したのは好きな美術系の大学だった。アパレル系の仕事に憧れてはいたが、周囲に流されて大学へと進んだのだ。英語を使う機会は激減し、大学時代に受けたTOEICのスコアは辛うじて七〇〇点といったところ。決して「ペラペラ」ではない。
それでも、見知らぬ土地でリリーやジュリアと最低限の意思疎通ができているのは、おそらく海外ドラマの影響が大きい。幼い頃から、母が好きだった『フレンズ(friends)』や『アリー my Love (Ally McBeal)』を子守唄代わりに観て育った。
画面の中で、理不尽な運命に毒づきながらも、自分らしく戦うヒロインたちの軽快な言い回し。それが私の耳の奥に、刷り込まれていったのだ。
「健一との暮らしには、英語なんて一言も必要なかったけれど……」
九年間の安穏とした生活の中で、錆びついていたはずの語彙たちが、皮肉にも人生最大のピンチである今、私の喉元までせり上がってくる。
この状況を乗り切るための武器を、無意識のうちに授けてくれていた母には、いつかきちんと感謝しなければいけないのかもしれない。
異国の風に吹かれながら、私は心の中で、かつて憧れたドラマのヒロインのように、少しだけ胸を張った。
今、私の頭の中では、自分を鼓舞するように『ヴォンダ・シェパード( Vonda Shepard )』の『Searchin' My Soul』が軽快な旋律とともに鳴り響いている。
隙のないスーツに身を包み、自分を探してボストンを闊歩するアリー。かつての私はそのスタイリッシュな姿に憧れていただけだった。けれど今は、その裏側にある彼女の不器用さや痛みが、痛いほどわかる。形は違えど、私も今、同じように傷つきながら前を向こうとしているのだ。
(アリーみたいに、もっと恋にアグレッシブに、自分をさらけ出せたらいいのに……。「仕事は完璧、でも私生活や心の中は迷走中」。そんな彼女の不器用な生き方に、これほどまでに共鳴する日が来るなんて、想像もしていなかった)
健一に似合うパターンを引くのはもう終わり。
これからは、このメロディに乗せて、私だけの新しい型紙を自由に描いていけばいい。
古びた換気扇が回る不規則で無機質なノイズが、少しだけ軽く感じられた。
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