第16話 ◇ 健一の友人、松田の怒り
都内のIT企業に勤める松田の元に、現金書留が届いたのは、出張から戻った日の夜のことだった。
封を切ると、中にはすみれからの直筆の手紙が収められていた。さらに、会費のキャンセル料を補って余りある、過分なほどの「迷惑料」が、すみれの個人口座から引き出されたのであろう新札で同封されていた。そしてそこには、これまでの準備の苦労を物語るように、整然と綴じられた「二次会準備の進捗リスト」が添えられていた。
手紙には、今回の事態に対する心からの謝罪が綴られていた。
急なキャンセルによって生じる景品の返送手数料、そして何より、松田たちが貴重な休日を割いて準備に奔走してくれたことへの申し訳なさ。二次会会場のイタリアン・レストランへの違約金については、すみれ自身が店を訪問して支払いを済ませる旨が記されていた。
松田は、その丁寧すぎる、あまりにも「最後」を感じさせる手紙を読み進めるうちに、怒りで視界が熱くなるのを感じた。
「健一、アイツ……あんなに尽くしてくれた彼女に、一体何をしたんだ!」
松田にとって、すみれは単なる『友人の彼女』ではなかった。
大学時代、山岳サークルのマネージャーとして、泥だらけになった自分たちの装備を文句ひとつ言わずに手入れし、遭難しかけた合宿では誰よりも冷静に救助要請の連絡を回してくれた。
「素敵な女性だな」――そう確信し、言葉にしようとした時にはもう遅かった。健一が先に告白し、二人の交際は始まっていたのだ。
松田にとって、それは淡い恋の終わりだった。親友の恋人という聖域に足を踏み入れるつもりは毛頭なかったが、それでも、健一の隣で献身的に微笑む彼女を見るたび、「健一、お前は本当に果報者だな」と、冗談めかして胸の疼きを誤魔化してきた。
パタンナーとして働き始めてからも、松田が仕事のストレスで胃を壊したと聞けば、健一を通じて「胃に優しい手作りのお惣菜」をタッパーに詰めて持たせてくれるような、そんな細やかな優しさを持つ女性だった。
自分をはじめ友人たちは、健一を「羨ましいやつだ」といつも言っていた。あんなに自分の仕事を理解し、私生活を支えてくれるパートナーは他にいないと。
それなのに。九年も待ち、ようやくたどり着くはずだったゴールの直前で、健一はその聖域を土足で踏みにじった。
松田の拳は、怒りと情けなさで白くなるほどに握りしめられていた。
松田は、手紙に添えられた「進捗リスト」を眺めた。
そこには、出席者のアレルギーの有無、健一が「好きだ」と言ったBGMのリスト、さらには当日、松田たちが動きやすいようにと配慮されたタイムスケジュールまでが、緻密に、完璧に書き込まれていた。
彼女は、裏切られている最中でさえ、俺たちのこと、そして健一のことを考えてこれを作っていたのか。
そう思うと、松田の胸には健一への猛烈な嫌悪感が湧き上がった。
一人の女性の、最も瑞々しい九年間の時間を独占し、プロポーズというエサで繋ぎ止め、その裏で不潔な裏切りを繰り返していた男。
松田は即座にスマートフォンを取り出し、健一の連絡先を表示させた。
何度も着信があったが、返す気にはなれなかった。
ただ、最後の一撃として、彼は震える指でメッセージを打ち込んだ。
『すみれさんから手紙と、今回の件に対する迷惑料を受け取った。お前、わかってるのか? あんな良い子、もう一生出会えないぞ。彼女の二十代を独占しておいて、もうすぐ二十九になる婚約者と浮気で別れるなんて、お前、最低だな。二度と俺の前に顔を見せるな。絶交だ』
送信ボタンを押し、松田は健一の番号をブロックリストに叩き込んだ。
松田の部屋の窓の外、東京の夜景が冷たく輝いている。
彼は、すみれが送ってきた現金の封筒を見つめた。これを受け取ることすら申し訳なかったが、彼女の「ケジメ」を汚すわけにもいかない。
「……幸せになれよ、すみれさん。どこにいるか知らねえけどさ」
かつての仲間たちが一人、また一人と健一の元を去っていく。
すみれの「優しさと気遣い」が失われた後、健一の周囲には、何ひとつとして確かな人間関係は残っていなかった。
彼女が去ったのは、ただの別れではない。
健一という男の「人間としての信用」すべてを、彼女は無意識のうちに持ち去ってしまったのだ。
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