第144話 建物と坂道と、遠い記憶
翌朝も、出社するジュリアと一緒に家を出た。
“My brother is joining us for dinner tonight, so let’s meet at Hong Kong Station at 6 p.m.”
『今夜は兄も一緒に夕飯を食べるからね。十八時に香港駅で待ち合わせにしましょう』
「うん、分かったわ。楽しみにしてる」
ジュリアと手を振り合い、私は一人で中環の街へと歩き出した。待ち合わせの十八時までは、気ままな一人旅の時間だ。
まずは香港を代表する絶景スポット、『Victoria Peak ビクトリアピーク』を目指すことにした。
中環駅のJ2出口付近から地上へ出る。そこから『Garden Road 花園道』の急な坂道を十五分ほど歩くと、ピークトラムの乗り場が見えてきた。
緑のミニバス一番や、二階建てバスの十五番でも山頂へ行けるようだったが、今回は観光客らしくピークトラムを選んだ。『オクトパスカード 交通ICカード』のおかげで、切符を買う手間もなくスムーズに乗車できるのが本当にありがたい。
夜に登って、世界夜景遺産にも選ばれた夜景を眺めるのも醍醐味だが、混雑を避けた静かな日中に眺める香港の街並みも圧巻だった。
急勾配をぐんぐん登るトラムの窓から、高層ビル群が見える。
山頂に到着し、爽やかな風が吹き抜ける遊歩道をのんびりと散策する。観光客で溢れかえる前なのか、それほど人も多くなくて想像以上に心地よかった。
その途中で見つけてふらりと入ったカフェは、コンクリート打ちっぱなしのデザインに高い天井、大きな窓から光がたっぷり差し込む無骨で洗練された空間だった。木の家具や柔らかい照明が調和していて、どこかレトロで居心地が良い。
少し斜めになった坂道沿いのカウンター席に腰を下ろし、ふとカウンターに並ぶレトロなカップや器、メニューに目をやった私は、小さく声を上げた。
(あれ……? このカフェ……メニューもカップも、昨日のキャットストリートで見かけたお店とそっくり……。同じ『Halfway Coffee』だから、もしかして同じお店なのね)
自然と溶け込む「Halfway Coffee」独特の佇まいに、私はすっかり魅了されていた。
サンドイッチとカフェオレを注文し、運ばれてきたカフェオレを一口すする。優しい味が身体に染み込んでいく。のんびりと贅沢なひとときを満喫する。
帰りのトラムでは運良く一番前の席を確保でき、迫りくる絶景を独り占めしながら、とても得した気分で下山した。
山を降りた後は、映画の舞台としても有名な、中環と高級住宅街ミッドレベルを結ぶ全長約800メートル、高低差135メートルの世界最長の屋外エスカレーター・システム『Mid-Levels Escalator ヒルサイド・エスカレーター』へと向かった。
昔見た香港映画『恋する惑星 重慶森林 Chungking Express』で度々、登場していた記憶がある。日本でも有名な俳優さんが出演していて、なんとなく記憶に残っていた。
実際のエスカレーターは、人々の移動手段として利用され、沿道に商店や住宅がぎっしりと密集した独特の景観は、眺めているだけでワクワクしてくる。
ヒルサイド・エスカレーターを上っていくと、途中の歩道橋からそのまま『大館 Tai Kwun』へ入ることができた。
ここは植民地時代の旧中央警察署や中央裁判所、そしてビクトリア監獄を含む十六もの歴史的建造物を改修した場所だ。そこに現代建築ユニット『Herzog & de Meuron ヘルツォーク&ド・ムーロン』が手掛けた二つの斬新な新館が融合し、今や香港屈指のアートスポットとして生まれ変わっている。
広大な敷地を進むと、英国統治時代を彷彿とさせる赤レンガの『営房大樓 営房ビル』や、かつての厳格で冷たい雰囲気をそのまま残す『Victoria Prison ビクトリア監獄』のBホールなどが目に飛び込んできた。
洗練された現代アートの展示やおしゃれなカフェ、お土産物店が、古い歴史の重みと不思議なコントラストを描いている。
「刑務所とモダンアート、カフェにお土産物店ね。……なんか、健一が好きそうな建造物巡りをしているわね。よく、一緒に散策したなあ」
不意に口をついて出た名前に、胸が小さくきしんだ。
香港に着いて一人旅に戻ったことで、ふとした瞬間に彼――健一のことを思い出す時間が増えた気がする。
いや、違う。
歴史を感じさせるこの街の独特な雰囲気と、古い建造物を巡るこの時間が、無意識に過去の記憶を引き寄せてしまうのだろう。
そう思いながら、私は足を止めた。
(……私、健一のどこが好きだったんだろう)
改めて考えてみる。
九年間も一緒にいたのに、いざ言葉にしようとすると、すぐには答えが出てこなかった。
顔だけが好きだったわけではない。もちろん、かっこいいと思っていたけれど、それだけなら九年も一緒にはいられない。
優しかったから?
……うん。優しかった。
仕事で疲れている時には、何も聞かずにそっとしておいてくれた。私が好きなものを覚えていてくれて、旅行先では私が喜びそうな場所を調べてくれた。
私が行きたいと言えば、一緒に行ってくれた。
……でも。
待ち合わせをすれば、いつも私のほうが先に着いていたし、仕事が忙しくなって出張が増えると、一緒に出かけることも少なくなった。
食べ物だって、いつの間にか私が合わせるようになっていた。健一はエスニック料理が苦手だったから、旅行先でも私は彼が食べられそうなものを選んでいた。
古い建物を見て回ることや、カフェを探して歩くのも好きだった。
仕事帰りに待ち合わせて、一緒に夕飯を食べるのも――好きだった。
ただ、振り返ってみれば、その『一緒に過ごす時間』は、少しずつ減っていたのかもしれない。
それでも私は、幸せだった。少なくとも、そう思っていた。
改めて考えてみても、答えは一つにはならなかった。
優しかったから。
一緒にいて安心できたから。
九年間も一緒にいて、私のことを一番よく知っている人だったから。
そして何より――。
この人となら、これからもずっと同じ毎日が続いていく。
私は、そんな未来を当たり前のように信じていたのだと思う。
(……そうか)
好きだったのは、きっと健一だけじゃなかったんだ。健一と一緒にいる時の、自分も好きだったのだ。
何年も一緒にいて、これからもずっと、この人とこういう日々が続いていくのだと思っていた。
それが当たり前だった。
だから、あの日突然、それが全部崩れてしまった時――私は、健一を失っただけじゃなくて、九年間かけて作ってきた『これから』まで、一緒に失ったのかもしれない。
少しずつ影が伸び、西の空がオレンジ色から深い紫へと染まり始めていた。
高層ビル群の合間から落ちてくる夕暮れの光が、赤レンガの壁を優しく照らし出す。
私はぼんやりとその光を眺めた。
(……私、本当に健一のことが好きだったんだな)
今さらそんなことを思って、胸の奥が少しだけ痛んだ。
少しずつ影が伸び、西の空がオレンジ色から深い紫へと染まり始めていた。高層ビル群の合間から落ちてくる夕暮れの光が、赤レンガの壁を優しく照らし出す。
「仕事終わりに待ち合わせしてたなあ。……ほとんど待たされてた思い出しかないけど」
(夕暮れ時になってきて、なんだか、感傷的になっちゃいそうで嫌だな……)
一人きりの静寂の中に飲み込まれそうになり、私は軽く両頬を叩いた。
スマホを取り出して時計を見ると、十七時を回っていた。香港駅でジュリアとお兄さんと待ち合わせている十八時までは、あと一時間ほど。
(よし、そろそろ香港駅へ向かおう)
過去への郷愁を振り払うように深く息を吐き出すと、私は賑やかな中環の街へと再び足を進めた。
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