第142話 上環のカフェと、人恋しさ
どれくらい眠っていたのだろう。控えめなノックの音で目が覚めた。
“Sumire? Are you awake? Would you like to have some tea?”
『すみれ? 起きてるかしら。お茶でも飲まない?』
ドアの外からジュリアの声が聞こえる。
中途半端に眠ってしまったせいで少し重く感じる体を起こし、身なりを整えてリビングへと向かった。
“Sorry, did I wake you?”
『ごめんね、起こしちゃった?』
「いいえ。声をかけてくれてありがとう」
“I just heard from my parents that they’ll be coming home soon. Once we’ve finished the introductions, let’s go out for dinner tonight. It’ll be a welcome dinner for you, Sumire!”
『そろそろ、両親が帰ってくるって連絡があったの。挨拶が終わったら、今夜は夕飯を食べに出かけましょう。すみれの歓迎会よ!』
ほどなくして、ジュリアの両親が帰宅された。帰宅したジュリアの両親は、二人ともいかにも公認会計士らしい、きちんとした雰囲気の人だった。
父親は仕立てのよさそうなシャツに眼鏡をかけ、物静かながらも、相手の話を一つひとつ確かめるような視線を向けてくる。母親もまた、派手さのない上品な服装で、穏やかな笑顔の中に几帳面さが感じられた。ジュリアが美人なことが頷ける素敵なご夫妻だ。
突然の訪問にもかかわらず、二人とも温かい笑顔で迎えてくれた。私は感謝の言葉を伝え、ムンバイで買っておいたインド紅茶の詰め合わせを手渡した。二人とも珍しそうに、そして嬉しそうに受け取ってくれた。
その日の夕飯は、太古城の駅近くにある中華料理店で、美味しい広東料理をご馳走になった。
テーブルに並ぶ料理はどれも素材の海鮮の味が活かされていて、日本で親しんできた中華料理の美味しさとどこか似ており、とても食べやすかった。温かいお茶を飲みながら、賑やかで和やかな時間が流れていく。
食卓の途中、ご両親が明日の予定を気にかけてくれた。
「明日からは一人で、のんびり街を歩いてみようと思っています」
“I see. Traveling alone sounds lovely. Just be careful, okay?”
『そう。一人旅も素敵ね』
鍵や戸締まりのこともあるため、明日の朝は最後に家を出るジュリアと一緒に外出することになった。そして、ご両親やジュリアが仕事から帰宅する夕方四時頃に合わせて家に戻る、というスケジュールが決まった。
家に帰り、ゲスト用のバスルームを借りてさっぱりと汗を流す。
「おやすみなさい」と皆に挨拶を交わし、早めに部屋のベッドへと潜り込んだ。
見知らぬ街の温かい家庭に包まれながら、私の香港での第一歩が静かに始まろうとしていた。
◇
翌朝、七時すぎスマホの目覚ましで目覚める。部屋に窓がないので、時間の感覚が掴めない。狭い部屋で洗面を済ませ、身支度を整えてリビングへ向かうと、窓の外からは、巨大なマンション群が朝日に照らされて、全体がゆっくりと目覚めていく気配が伝わってきた。
ジュリアの両親はすでに朝食を済ませ、出社するところだった。
“Good morning, Sumire. Have a nice day!”
『おはよう、すみれ。観光を楽しんでね』
“You’re traveling alone, so be sure to take good care of yourself.”
『女性の一人旅だから、十分に気をつけるんだよ』
娘を持つ両親らしい温かい気遣いに、感謝の言葉を返した。
二人に挨拶をしたあと、私はジュリアと二人で朝食を取った。
すでに出社の準備を終えていたジュリアが、トーストと温かいミルクティーを用意してくれていた。
“Shall we go, then? Take care, and have a good day. If you run into any trouble, call me anytime. Promise me!”
『じゃあ行きましょうか! 気をつけて行ってきてね。困ったことがあったらいつでも連絡してね。絶対よ!』
「ありがとう、ジュリア。行きましょう」
八時前、出社するジュリアと一緒に家を出た。
重厚なセキュリティドアを抜け、大理石のエントランスを通って外へ出る。
朝日を浴びた『太古城』の敷地内では、スーツ姿の男女や制服を着た学生たちが、次々と駅へ向かって歩いていた。
男子生徒は白っぽいシャツに、黒のパンツが主流。女子生徒は、白や淡いブルー、グレーなどを基調としたプリーツスカートや、襟付きのワンピーススタイルが主流のようだ。
仕事柄なのか、女の子の服装に目がいく。
国は違えど、女の子のおしゃれは万国共通だ。白いソックスと、校則により違うのだろう、黒い革靴の子と、白いスニーカーの子たちが目につく。
MTRに乗り、『セントラル駅 中環駅』でジュリアと「また夕方にね」と手を振り合い、私は、地上に出てすぐ目に入った二階建ての路面電車『叮叮 ディンディン』に乗り込んだ。交通系ICカード『Tourist Octopus オクトパスカード』を購入した。
手元にあるのは、以前勤めていた女性向けファッションブランドの小さな斜めがけバッグと、スマホだけ。退職した今も、このバッグだけは気に入って使い続けている。
一人きりになって改めて周りを見渡すと、広東語なのか中国語らしき言葉と英語が飛び交う熱気が、ダイレクトに肌に伝わってきた。
これまではムンバイでコウさんが隣にいてくれた。行先を迷うことも、頼る相手がいる安心感に守られることも、もうここにはない。これからは全部、自分で決めて歩いていくのだ。本来の自分に戻っただけ、胸の奥が少しだけキュッと引き締まるのを感じた。
二階の最前列の席に滑り込み、ガタゴトと揺られながら街を眺める。
頭上をかすめる派手な漢字の看板、高層ビルの隙間を縫うように走る車列、そして勢いよく行き交う人々。風を頬に受けながら、活気に満ちた香港の街並みを上から見下ろす時間は、一人旅ならではの開放感に満ちていた。
中環から『西営盤 サイインプン』のあたりまで十二分ほど移動し、古い街並みが残るエリアを散策した。急な坂道や階段が続く路地には、干物や漢方を扱う老舗が並び、どこかレトロな雰囲気が漂っている。
検索して見つけたのは、『聖羅蘭餅屋 St. Lolan Bakery』、西営盤駅B1出口からすぐの場所にある、地元でも非常に評価が高い昔ながらのパン屋さん。
名物のエッグタルトを一口かじると、サクサクのパイ生地ととろけるようなカスタードの甘さが口いっぱいに広がり、思わず頬が緩んだ。
(美味しい! シンガポールで食べたものも美味しかったけれど、ここのも美味しいわ!)
『Art Lane アートレーン』は、西営盤にあるストリート・アートギャラリーで、住宅街に、地元および海外のアーティスト十七名による二十六枚の壁画が展示されている。
『虹の階段』とインスタ映えの街として有名らしく、ぶらぶらと散策して写真を撮影する。
その後、また路面電車で上環へと移動する。二階から香港の街並みを見ているだけでも活気があって元気がもらえる。
上環の骨董品街には、高級骨董品店が並ぶ『ハリウッドロード 荷李活道 Hollywood Road』と、そこから階段を下りた場所にある『キャット・ストリート 摩羅上街 Cat Street』がある。
キャット・ストリートは、約二百メートルの歩行者天国になっていて、レトロな雑貨や、ちょっとしたお土産などを扱う露店が並ぶ蚤の市だ。
もともと細々した宝探しのようなアンティークを見るのが好きな私は、胸を躍らせながら街歩きを楽しむ。健一も古い建物を見るのが好きだったから、こういう場所なら一緒に歩いたら喜んだだろうな、と思う。
(健一、こういう古い建物、好きだったな)
その時、ふと、そう思い浮かんだ。ただ、あまりに自然に湧き上がった思いに、感傷的になることもなく、ただ、そう思えた。
『文武廟 マンモウミウ Man Mo Temple』。ハリウッドロード沿いにある、香港最古級の道教寺院で、天井から無数に吊るされた巨大な渦巻き線香が有名らしく、全部が燃え尽きるまでに一週間以上もかかるのだそうだ。
(どうりで、こんなに煙が立ち込めるわけね。でも、寺院のお線香の煙がありがたい感じがするのは日本人だからかしら)
私は散策を楽しみつつ、時計を見ると、すでに十二時を過ぎていた。
(昼ごはんどうしようかな……。特にお腹も空いてないから、カフェでもいいんだけど)
キャットストリートにある、『Halfway Coffee 半路珈琲』で、アイスアメリカーノと、レモンタルトをいただく。手書きの英語メニューがおしゃれで雰囲気がある。
店のレトロ雰囲気に、モダンな内装。客層も若くて、お洒落な人が多い気がして、急に旅のシャツにジーンズ姿のラフな服装の自分が、ちょっと場違いに感じられる。
(いいなあ。誰かとお茶をして、気楽な会話を楽しむなんて、普通のことがこんなにも羨ましく感じる日が来るなんてね)
怪しくなってきた空模様を眺めながら、なんとなく人恋しくなってきた。
その理由には心当たりがあるが、考えないようにしていた。
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