第141話 香港の風と、小さな部屋
『太古城 タイクーシン』は、六十棟以上の高層マンションからなる大規模な高級住宅街だ。駅からすぐの棟もあれば、駅から十五分ほど歩く場所にも建物が整然と立ち並んでいる。
敷地内に入ると、光沢のある大理石で覆われたエントランスが私達を迎えてくれた。中央にはコンシェルジュデスクがあり、ホテルのような静かな空間が広がっている。
香港の大規模な高層住宅では、低層部分に商業施設やジム、プールなどの共用施設が設けられていることも多い。エレベーターも高層階用や低層階用と階層ごとに細かく分かれており、セキュリティの厳重さが伺えた。
エレベーターのボタンを見ると、香港らしく縁起を担いで『四』のつく階数(十四階など)や『十三階』が飛ばされていることに気づく。
ジュリアの家があるのは『十五階』。高層階に比べれば低い位置にあるため、ジュリアはここを『Low Zone』と呼んでいるらしい。
“This is my home. Come on in!”
『ここが私の家よ。どうぞ!』
重厚なドアを開けると、明るい光が差し込む清潔感あふれるリビングが広がっていた。
日本の一般的な3LDKファミリータイプと比べるとややコンパクトに感じられるが、バスルームは家族用とゲスト用の二つが備わっている。日本と大きく違うのは、お手伝いさん用の狭い部屋があることだろう。
香港のアッパーミドル層は共働きが多く、住み込みの外国人ヘルパーを雇うのが一般的なのだそうだ。そのため、キッチンの奥などに『Helper's Room ヘルパーの部屋』と呼ばれる専用室と専用トイレが最初から間取りに組み込まれているのだとジュリアが教えてくれた。
香港には数十万人規模の『Foreign Domestic Helper, FDH 外国人家事労働者』がいる。
香港の法律では、FDHは雇用主の家に住み込むことが義務付けられている『live-in requirement』。つまり、Helper’s Roomは「あると便利な部屋」ではなく、住み込みで雇用する場合には、ヘルパーの居住スペースを確保する必要があるため設けられている部屋なのだ。
香港の共働き率は高い。夫婦ともにフルタイムで働き、子供の世話と家事をヘルパーに任せる。夫婦のどちらかが仕事を辞めるか、費用の高い保育所に預けるよりはメイドを雇って子育てと家事を任せる方が、フルタイムで働けて合理的な構造なのだそうだ。
もちろん、メイドを雇わない家庭もある。その場合は、この小部屋は物置となるのだそうだ。今のジュリアの家は、メイドは雇っていないそうだ。
ジュリアは今年になってから、この十五階の部屋に引っ越してきたのだという。
理由は、二〇二五年十一月に起きた大規模な高層マンション火災だった。
香港の高層住宅では防災設備や避難対策が整えられている一方で、あの火災を受けて、万が一の際にも階段で速やかに避難しやすい低層階を選んだのだそうだ。
限られた開発用地と高騰し続ける価格で厳しい香港の住宅事情の中、この住居に引っ越せたのは本当に幸運だったのだとジュリアは話してくれた。
「ご両親は?」
“They’re both at work right now. They should be back later this evening, and I’ll introduce you properly when they get home. My mom and dad are both CPAs, so they’re pretty busy during the day. Oh, and I have an older brother, too. He’s a lawyer, but he lives by himself now.”
『二人とも仕事よ。夕方過ぎには帰ってくるから、その時にちゃんと紹介するね。父も母も公認会計士をしていて、日中はいつも忙しいの。ちなみに兄が一人いるんだけど、兄も弁護士で今は一人暮らしをしてるのよ』
「まあ、すごいわね」
両親が公認会計士で、兄が弁護士。香港で暮らす家庭としては、かなり恵まれた環境なのだろう。
“Sorry about the room. Other than my parents’ master bedroom and mine, this is the only room we have—the ‘helper’s room.’ You’ll be staying here for now. Is that okay with you?”
『部屋はね、ごめんね。両親の主寝室と私の部屋の他に、この『helper’s room』があるの。今回はここを使ってもらうことになるけど、大丈夫? あと、シャワーは私の部屋のバスルームを使ってね』
「ありがとう。泊めてもらえるだけでありがたいわ」
部屋は二畳ほどしかなく、ベッドと小さな収納を置けばほとんど余裕がない。奥にはシャワーとトイレが一体になった簡素な水回りがあり、シャワーを浴びれば床全体が濡れてしまいそうな造りだった。
(これ、どうやってシャワーを浴びるのかしら? ベットは濡れないの?)
それでも、東南アジアからの住み込みのヘルパーを雇う家庭が多い香港ならではの間取りなのだろう。
(ジュリアって、すごくお金持ちなのかしら……それとも、これが香港の一般的なご家庭なのかな……?)
圧倒されながらも部屋に荷物を置くと、ジュリアが手際よく軽食だと言って、熱々の点心と卵スープを出してくれた。
つい一時間ほど前にお粥を食べたばかりだったけれど、彼女の好意が嬉しくて二人で並んで平らげると、お腹も心もすっかり満たされていく。
“It was a late-night flight, so were you able to get some sleep on the plane? You must still be pretty tired, though. You should take a little nap. I’ll get some work done while you rest.”
『深夜便だったから、機内では少し眠れた? でもやっぱり疲れたでしょう。少し昼寝をするといいわ。私もその間に少し仕事を片付けちゃうから』
ジュリアの温かい気遣いを受けて、私はお言葉に甘えてメイド部屋のベッドに横になった。
狭いながらも心地よい空間で横になると、機内での緊張や移動の疲労が一気に押し寄せてくる。
目を閉じると、不意に空港でのコウさんとの別れが蘇ってきた。
(コウさん、どうしてるかな……)
遠く離れてしまった彼の存在を思いながら、私は静かに深い眠りへと落ちていった。
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