第139話 香港到着、ジュリアとの再会
約八時間半のフライトを終え、『Cathay Pacific キャセイパシフィックCX696便』は、定刻の午前七時、ゆっくりと『Hong Kong International Airport 香港国際空港』へと着陸した。
着陸の衝撃とエンジンの逆噴射音で目が覚める。
コウさんと別れて寂しいはずなのに、眠れてしまった自分の図太さに呆れるような、可笑しいような不思議な清々しさがあった。
窓の外を覗くと、『Lantau Island ランタオ島』の海を背景に、朝日を浴びて青白く光る巨大な滑走路とターミナルが広がっていた。世界有数のハブ空港らしく、早朝だというのに、すでに多くの航空機が整然と行き交っている。
「……着いたんだ」
小さく呟いて、私は窓の外をもう一度眺めた。
香港。
これからしばらく過ごすことになる、新しい旅の目的地だ。
飛行機を降りると、空調の整った近代的なターミナルの空気が頬を撫でた。
いまや、空港という場所はどこも似たような雰囲気がある。
香港という土地柄のせいか、周囲を行き交う人々の顔立ちにアジア系が増えたことが、妙に新鮮に感じられた。
ナナちゃんとムンバイに向かって以来、およそ六週間ぶりの国際線のフライトだった。
けれど、耳に届くアナウンスや周囲の会話に英語が多いせいか、あるいは、この街にはJulia ジュリアがいてくれると思えるからか、不思議と大きな不安は感じていなかった。
むしろ、どこかほっとしている。
暗い機内で目を閉じていたとき、ふとコウさんのことが頭をよぎった。
彼のフライトは日本まで九時間ほど。
私より三時間ほど早くムンバイを飛び立ったから、きっと今頃、同じような時刻に成田へ到着しているのだろうか。
彼はもう、日本に着いただろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、私は入国審査へと向かう人の流れについて歩いた。
荷物は機内持ち込みのバックパック一つ。
預け入れ荷物はないので、そのまま人の波に乗って進んでいく。
貴重品を入れたウェストポーチのポケットには、コウさんから渡された小さな小箱が入っている。
ときどき指先でその存在を確かめるたびに、別れ際の彼の表情が蘇ってきて、胸の奥がキュッと小さく痛んだ。
ポケットからスマートフォンを取り出し、空港の無料Wi-Fiに接続する。
WhatsAppを開いて、ジュリアにメッセージを送った。
『今、香港空港に無事到着しました』
送信してから、ほんの数秒。
すぐに返信が返ってきた。
『Welcome to Hong Kong! ようこそ、香港へ!』
そして続けて、
“I took the day off today, so I’ll come pick you up at Hong Kong Station. Let’s have breakfast together.”
『今日は休みを取ったから、香港駅まで迎えに行くわ。一緒に朝食でも食べましょう!』
ジュリアらしい、普通のメッセージだった。
その文字を見ただけで、心がふっと軽くなる。
『ありがとう。じゃあ、香港駅に到着したら、また連絡します』
返信を送って、スマートフォンをバッグへしまった。
さあ、まずは香港駅へ向かおう。
ランタオ島にあるこの空港から、香港の中心部にある『Hong Kong Station 香港駅』までは、高速鉄道『Airport Express エアポートエクスプレス 機場快綫』でわずか二十四分。
案内表示に従って進んでいくと、Airport Expressの乗り場が見えてきた。
ホームへ向かう途中、私は少しだけ戸惑った。
日本の鉄道駅とは少し雰囲気が違う。
改札口らしい場所を通ったものの、ホームへ向かうというより、そのまま列車へ進んでいくような感覚だった。
「……これでいいのかな?」
案内表示を確認しながら、私はそのままホームへ向かった。
ほどなくして、スタイリッシュな車両が滑り込んでくる。
ドアが開くと、私はバックパックを背負ったまま車内へ乗り込んだ。
車内にはスーツケースを置くための広い荷物スペースがあり、座席もゆったりとしている。もっとも、私の荷物はバックパック一つ。広い荷物スペースのお世話になる必要はなかった。
席に腰を下ろすと、列車が滑らかに動き始めた。
大きな窓の向こうを、香港の朝の景色が流れていく。朝日に照らされた海。遠くに見える山々。そして、少しずつ増えていく高層ビル。
ムンバイとはまったく違う景色だった。
私は窓の外を眺めながら、ウェストポーチの上から小箱をそっと撫でた。コウさんからもらったターコイズの指輪。まだ、身につける気にはなれない。けれど、その存在を確かめるだけで、彼の笑顔が浮かんでくる。
……本当に、私はどうしてしまったのだろう。
ムンバイを離れたばかりなのに、もう懐かしいと思ってしまう。
そんなことを考えているうちに、列車はあっという間に『Hong Kong Station 香港駅』へ到着した。約二十四分。滑らかな加速と減速のせいか、ほとんど揺れを感じなかった。
到着後、ジュリアにメッセージを送信して、待ち合わせ場所を教えてもらう。
『Level 5, Arrivals Platform L五階の到着ホーム側』
ホームに降り立つ。ガラス張りで天井が高く、明るく洗練されたデザインの空間が広がっている。
『Hong Kong Station 香港駅』は『Airport Express エアポートエクスプレス 機場快綫』の終点駅で、地下通路を通れば隣接する『Central Station 中環セントラル駅』ともつながっている。
正面に、円形の大きな『機場快綫客務中心 Airport Express Customer Service Centre』の看板があり、『Level 5』の改札口出口でジュリアを待つ。
地上には、高級ショッピングモール『International Finance Centre Shopping Mall IFCモール』がそびえ立っている。
ハイブランドのショップや洗練されたレストラン、高級スーパーなどが並ぶその空間は、まさにアジアを代表する金融都市らしい雰囲気に満ちていた。
ここまで来ると、いよいよ実感が湧いてきた。
ムンバイは、もう遠い。そして、私の旅はまた新しい場所へ続いている。
ジュリアと初めて出会った日のことを思い出す。
彼女は自分自身のことを、『Hong Konger 香港人』と誇りを持った口調で呼んでいた。
その言葉の響きには、特別な歴史と文化の中で生きてきた自負が込められているように感じられた。
私が「Are you Chinese?」と声をかけた時の彼女の表情は、うまく表現できないものだった。
彼女の心情を私が言葉にすることはできない。ただ、『“I’m a Hong Konger.” 私は香港人よ』とだけ、はっきりと答えられた。
私には、そこには何とも言えない思いが込められているように感じられた。けれど、私の英語力では、その繊細なニュアンスをうまく言葉にすることができなかった。
そして、それ以上は触れてはいけないことのようにも感じられた。
そういえば、彼女の両親の世代――今六十歳間近の彼らは、1997年の香港返還前からBNOの資格を持っていたと話していた。
『BNO : British National (Overseas) イギリス国民(海外)』
イギリス領だった時代を知る親の世代と、新しい時代を生きるジュリアたちの世代。
その二つの時代の間に、彼女の家族の歴史もあるのだろう。
香港では中国語と英語が公用語として使われている。
ジュリアの両親の世代はイギリス英語の影響が強かったが、ジュリアたちの世代には映画やインターネットなどの影響で、アメリカ英語も混じってきているらしい。
そこに母語である広東語の声調や発音の影響も加わり、香港独特の英語になっているのだと、以前シンガポールでジュリアが教えてくれた。
彼女の両親は広東語を話す香港人。ジュリア自身も英語と広東語のバイリンガルで、約六割の人が二カ国語を話すらしい。
私の日本語訛りの英語に比べれば、彼女の英語はずっと流暢で、私には、ほとんど訛りがあるようには感じられない。
香港では、英語、広東語、北京語の三つを使い分ける人も珍しくないという。
以前、シンガポールで、私はジュリアにこんな恥ずかしい質問をしたことがある。
『広東語と北京語って、どっちも中国語じゃないの?』
するとジュリアは、呆れたように笑った。
『同じ中国語の仲間だけど、話し言葉は別物よ。発音も違うし、勉強していなければ会話ではほとんど通じないわ』
そのときの私は、
「そういうものか」
と納得するしかなかった。
そんなことを思い出しながら、私は雑踏の向こうへ視線を走らせる。
「Sumire!」
そのとき、人混みの向こうから聞き慣れた声が飛んできた。
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