第138話 空港での別れと贈り物
午後になると、出発の時間が近づいてくる緊張感があった。
コウさんは、ひと月後にはムンバイに戻ってくる予定だそうで、冷蔵庫さえ空であれば問題ないそうだ。
最後に部屋を見回す。
六週間前にナナちゃんと初めてお邪魔したときは、有名YouTuberコウさんの海外の拠点の一つにすぎなかった場所。
今は、すっかり見慣れた、居心地の良い場所になっていた。
キッチンも。ソファも。窓から見える景色も。そして、そこにいるコウさんも。全部が、少しずつ私の日常になっていた。
「すみれさん、準備はいい? そろそろ行こうか」
「……はい」
私はバッグパックを手に取った。
その中には、コウさんへの小さなプレゼントが入っている。手作りテディベアの『くまのコウ』。私のテディベア、『くまのスミレ』とよく似たもの。
忘れ物がないか、もう一度部屋を確認する。
「大丈夫?」
「はい」
コウさんが玄関のドアを開ける。
私は最後に一度だけ振り返った。この三週間を過ごした素敵な場所。
「……行こうか」
「はい」
二人で玄関を出る。
バタンッ
ドアが静かに閉まったその音を聞いた瞬間、胸の奥がまた、きゅっと締めつけられた。
私たちは恋人になったわけでもなければ、特別な約束を交わしたわけでもない。それでも――この家を離れることを、思っていた以上に寂しいと感じている自分がいた。
◇
搭乗アナウンスが響く空港の出発ロビーは、行き交う人々の足音と喧騒に包まれていた。
先に飛び立つコウさんの搭乗時間が、刻一刻と近づいてくる。
今日でお別れ、そのことを理解していたはずなのに、どこか現実感がなかった。
けれど、荷物を抱えた彼が私に向き直り、静かに息を吐いたとき、胸の奥がキュッと強く締めつけられた。
「じゃあ、先に行くね。ゲートまでは……辛いから、ここで」
その一言で、私は初めて突きつけられたのだ。
コウさんが、本当にいなくなってしまうのだと。
「すみれさん、香港、楽しんできて」
コウさんは最後まで、私を困らせるようなことは何も言わなかった。
「待ってる」と縛り付けるような言葉すら口にしない。ただいつもの笑顔に比べると少しぎこちない笑みを浮かべている。
「コウさん……あの、これ……」
私は用意していた小さな袋を差し出した。中身は、手作りした『テディベアのコウ』だった。
「これ、受け取ってください。……私たちが出会った記念に」
「……え。あの、中を見てもいい?」
コウさんが紙袋の中から『テディベアのコウ』を取り出して驚いた顔を浮かべた。
「わあ。これ、もしかして、俺? 黒タンクに、デニムのショーパン。それに、左耳のこれ、ピアスだよね。……すごいな」
テディベアを見て、自分がモデルだと気づいてもらえて嬉しい。
「ありがとう。すごく嬉しいよ。大事にするね。……できれば、すみれさんがモデルのテディベアの方が良かったけどね」
コウさんはイタズラっぽく笑って、愛おしそうにテディベアを袋に戻すと、今度はポケットから小さな小箱を取り出し、私の手にそっと握らせた。
「俺からも、これ」
掌に残る小さな重みに驚きながら箱を開けると、そこには、深みのある鮮やかな青緑色の輝きがあった。
いつか二人で歩いたマーケットで、私が何気なく「綺麗」と呟いた、あのターコイズの指輪だった。
「これ……あのときの……?」
片山さんが帰国した後、コウさんと二人で行った宝飾品市場『Zaveri Bazaar ザヴェリ・バザール』で私が気になって手に取った指輪だった。
「すみれさんが綺麗だって言ってたから」
「でも、私……」
「分かってる。別に深く考えなくていいよ……まあ、考えてくれたら嬉しかったけど」
私の戸惑いを遮るように、コウさんは優しく言った。
この人は、私の誕生石を覚えていてくれたのだ。
そして、それを三週間もの間、私に渡さずに持っていてくれた。
傷ついた私への同情や、ただの優しさだけではない。真っ直ぐな想いが、指輪の冷たい感触を通して溢れるほど伝わってきた。
「それじゃ、気をつけてね……すみれさん」
コウさんの笑顔がぐしゃりと崩れた。そして、次の瞬間、私はコウさんに抱きしめられていた。彼のムスクの香りと、シャツの上からでも伝わる温かさ。
「……ごめん。……最後に、もう一度抱きしめさせて。少しだけ……ごめん」
コウさんに抱きしめられながら、私の胸もギュッと苦しくなってくる。
最後のお別れ。そう思い、今回は彼の背中に手を回して、優しくトントンと背中をさする。
どれくらいのそうしていただろう。一分だったのかもしれないし、数分だったのかもしれない。落ち着いたコウさんが、ゆっくりと顔をあげて、私を見つめる。
「……なんか、慰められてるみたいで、俺、カッコ悪いね」
そう言って笑ったコウさんの表情は、さっきよりも柔らかかった。
「その指輪、お守りだから。すみれさんの誕生石だけど、トルコ石には旅人を守る力や、危険を遠ざける厄除けの意味があるんだって。ちゃんと左手の薬指にしておいて。旅先で変な男に惚れられないように、お守りだよ」
どこまでが冗談かわからないことまで話せるほど元気になったようで良かった。
その時になって、コウさんの左手の薬指にも、同じような指輪が光っていることに気がついた。
(あれ? トルコ石の指輪をしてる……? でも、聞かない方がいいかな)
そして、コウさんは小さく手を振ると、一度も振り返ることなくゲートへと歩き出した。その背中が人混みの奥へと消えていく。
手に握りしめた指輪の輪郭が、痛いほど掌に食い込む。
コウさんが、いなくなってしまった。
たったそれだけのことなのに、息がうまく吸えないほど胸が苦しかった。
三週間前、私はこの場所にコウさんがいなくても、旅をしていたはずだった。彼の存在すら知らなかった。なのに、今はどうしてこんなにも心が千切れそうなのだろう。
(私は、コウさんと離れたくなかったんだ――)
溢れ出しそうな感情を必死で抱え込みながら、香港行きの搭乗口へと移動する。
まだ搭乗開始までは時間がある。私は待合室の椅子に腰を下ろし、荷物を足元に置いた。
手の中には、コウさんからもらった指輪がある。それを見つめながら、私はもう一度、自分自身に問いかけた。
(私は……コウさんのことが、好きなの?)
胸の奥で渦巻くこの苦しさと愛おしさが「好き」ということなのだろうか。それとも、一人旅に戻った不安と寂しさが、私を人恋しくさせているのだろうか。
はっきりとした答えはまだ出ないまま、私は掌の指輪を強く握りしめ、空港の待合室で荷物を下ろした。
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