第137話 三週間の日常が消える寂しさ
私を抱きしめていたコウさんは、しばらくしてゆっくりと腕の力を抜いた。コウさんの体から伝わっていた温かさが遠のいていく。
そして、ゆっくりと私と向き合うと、一度月を仰ぎ見て、大きく息を吸った。その姿は、まるで涙がこぼれ落ちるのを耐えているようにも見えた。
それから、ゆっくりと私へ視線を戻すと、少し照れくさそうで、それでいて何かを堪えているような、どこかコウさんらしくない表情を浮かべて気まずそうに微笑んだ。
「……行こうか」
それから、私たちは無言で並んで遊歩道を歩き、コンドミニアムへと帰宅した。
そして、いつも通り「おやすみなさい」と短く挨拶を交わし、それぞれの部屋へと向かった。
シャワーを浴びてベッドに入ったものの、一向に眠気が訪れる気配はない。耳元に残る彼の震えた声と、肩に残る温もりが、何度も頭の中を巡っていた。
(今は、彼の想いには答えられない。だから、これは自分の出した答えだ……)
私は眠ることをあきらめて、のそのそとベッドから抜け出すと、明かりを落とした部屋で少ない荷物のパッキングを始めた。
ベッド脇に置いていた小さな紙袋を手に取る。
中には、この三週間で縫い上げた小さなテディベア。
『くまのスミレ』とどこか似た雰囲気の『くまのコウ』は、黒いタンクトップにデニムのショートパンツ姿の男の子だ。さすがにタトゥーまでは再現していないが、左耳には、コウさんがいつも身につけているダイアモンドのスタッドピアスを再現して、ジルコニアを貼り付けてある。コウさんを知っている人が見れば、『くまのコウ』だと気づいてくれるだろう。
(明日、空港で渡そう。手荷物になってしまうけど、小さいから大丈夫だよね……)
そう決めて、私はテディベアをそっと袋に戻した。
私のフライトは明後日の夜、二十二時二十五分発のキャセイパシフィック航空CX696便。
一方、コウさんは同日の午後七時三十分発、ANAのNH830便で日本へ帰国する。
つまり、一緒に空港へと向かい、私はコウさんを見送ってから三時間後に香港へと飛び立つことになる。
つまり、この家で二人きりで過ごす夜は、明日が最後ということになる。
静まり返った室内で、胸の奥に広がる切なさを振り払うように、私は一枚ずつ丁寧に少ない服を畳んでいった。
◇
翌朝、いつもと同じように目を覚ました。カーテンを開けると、まだ八時だというのに、窓からは強い日差しが差し込んでくる。
ここで目を覚ますのも、今日が最後だ。そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
私は小さく息を吐き、いつものように朝食の準備を始めた。
「おはようございます」
「おはよう」
キッチンに立つ私の背後から、コウさんの声がする。
それも、いつもと同じ。
「何か手伝いますよ」
「じゃあ、お味噌汁をお願いします」
「了解」
コウさんがおたまを受け取る。
私は卵を焼きながら、ちらりと横を見る。こうして二人で朝食を作ることも、今日で最後。
明日の夜には、私は香港へ向かい、コウさんは日本へ帰る。
分かっている。分かっているのに、今こうしていると、それが現実のこととは思えなかった。
「……どうかした?」
「え?」
「さっきから、俺のこと見てません?」
「……見てませんよ」
「いや、見てたでしょ」
コウさんが笑う。
「気のせいです」
私も笑った。それ以上は、何も言わなかった。
朝食を終えると、二人でいつものように片付けをした。
それから近所へ買い物に出かけ、カフェでランチをして、家へ戻る。
特別なことは何もしなかった。
でも、何気ない一つ一つのことが、妙に心に残った。
コウさんが冷蔵庫を開ける姿。
ソファに座ってスマートフォンを眺める姿。
私が洗濯物を畳んでいると、「それ、俺のです」と笑いながら取り上げる姿。
この三週間で、すっかり見慣れてしまった光景だった。
だからこそ、明日からは、これがなくなるのだと寂しく思えてくる。だからこそ、私は、そのことを考えないようにしていた。
夕方になると、二人で近くの遊歩道を歩いた。この三週間で、何度も歩いた道だった。
初めて歩いたのは、ナナちゃんと一緒にコウさんと初めて会った日、片山さんもいて四人で歩いた。コウさんと知り合ってから、もう六週間になる。長かったような、短かったような、不思議な時間だった。
「……明日……だね」
隣を歩いていたコウさんが、ぽつりと言った。
「はい」
「すみれさんは香港か」
「コウさんは日本ですね」
「うん」
それだけで、会話が途切れた。
でも、不思議と気まずくはなかった。隣にいる人が、明日にはいなくなる。
その事実だけが、静かに胸の中へ沈んでいった。
◇
いよいよ旅立ちの日の朝、いつもと同じように目を覚ました。
カーテンを開けると、まだ八時だというのに、窓からは強い日差しが差し込んでくる。
『ここで目を覚ますのも、今日が最後だ』と、そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
昨日は、コウさんといろいろ話をした。これまでのこと。コウさんが日本へ帰ってからのこと。そして、私がこれから向かう香港のこと。けれど、どちらも自分の気持ちを深く言葉にすることはなかった。
私は顔を洗って身支度を整えると、いつものようにキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開け、朝食の準備を始める。お味噌汁を温め、だし巻きを焼く。いつもなら何も考えずにできることなのに、今日は一つ一つの動作が妙に意識に残った。
「おはよう」
背後から声がした。
「おはようございます」
振り返ると、コウさんが眠そうな顔で立っている。
「よく眠れました?」
「まあまあかな。すみれさんは?」
「私も……まあまあです」
「そっか」
それだけ。いつもの朝と変わらないはずなのに、二人とも少しだけぎこちない。
「コーヒー、淹れるね」
「ありがとうございます」
コウさんがいつものようにコーヒーを淹れてくれる。
私はテーブルに朝食を並べた。
「「いただきます」」
二人で手を合わせて、そして、いつものように食事を始めた。
「……やっぱり、すみれさんの味噌汁うまいな」
「ふふ。日本に帰ったら、毎朝自分で作ってくださいね」
「えー……」
「何ですか、その反応」
「いや、俺、一人だと朝食そのものを食べなくなる可能性が……」
「駄目ですよ。ちゃんと食べてください」
「はい」
コウさんが笑って、私も笑った。
たったそれだけの会話なのに、胸が少し苦しくなった。
(これも、今日で最後なんだ……)
そんなことを考えながら、私はお味噌汁を一口飲んだ。
朝食を終えると、二人で食器を片付けた。
「俺、洗いますよ」
「いいですよ。私も手伝います」
「いつもやってもらってるから、最後くらいは俺にやらせて」
「……最後くらい、って言わないでください」
思わず口から出た言葉に、コウさんの手が止まった。
「……ごめん」
「いえ……私も、すみません」
しばらく二人とも黙った。
やがてコウさんが、いつもの調子で、「じゃあ、二人でやろう」と言い、私は小さく「はい」と笑った。
二人並んで食器を洗う。シンクに向かい肩が触れそうになる距離。それだけなのに、不思議と心が落ち着いた。
午前中は、それぞれ荷物の整理をした。
コウさんは日本へ持ち帰る荷物をまとめ、私は香港へ持っていく荷物を確認する。
「すみれさん、これ忘れてません?」
「え?」
コウさんがテーブルの端に置かれていた充電器を指差す。
「あ……忘れるところでした」
「危なかった」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
そんなやり取りを何度も繰り返した。
特別なことは何もないけれど、でも、私は気づいていた。コウさんが、いつもより私のことをよく見ている。そして、私も、いつもより彼を目で追ってしまう。
そして、そのたびに思う。
(明日からは、この人がいないんだ……)
昼前。荷造りが一段落すると、二人でソファに座った。
私はコーヒーを飲み、コウさんはスマートフォンを眺めていた。
いつもなら、テレビからは何かしらのネット番組の音がしていたのに、今日は静かな部屋だった。
「……静かですね」
「うん」
「三週間前は、こんなに静かな時間があるなんて思いませんでした」
「最初は、俺のこと警戒してたもんね」
「……してましたね」
「結構?」
「かなり」
「やっぱり?」
「タトゥーがすごくて……馴染みがないんですもん」
「まあね。一人旅で僻地を回る時なんか、コレがあった方が安全なんだよね。タトゥーを入れてからの方が、断然周りの態度が変わったからね。まあ、両親の反応は最悪だったけどさ」
「……わかります。そのデザインは、意味はあるんですか?」
「これはネイティブアメリカンの祈りをモチーフにした柄でさ。騙し絵みたいに、両親と自分の星座を入れてるんだ。俺、この姿だけど両親大好きっ子だからさ」
二人で声をあげて笑う。笑い声が収まると、また静かになった。
私はカップの中のコーヒーを見つめた。
「……楽しかったです」
自然と口から言葉が出た。
「……うん」
コウさんも短く答える。
「私、ムンバイに来て良かったです」
「俺も……」
コウさんは少しだけ間を置いて、
「すみれさんと会えて良かった」、と付け加えた。
私は返事をしようとして、できなかった。その代わりに、ただ小さく笑った。
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